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楯岡城は楯岡市街地の北方、通称 楯山に築かれた山城で、2つのピーク(西楯山・中楯山)を中心に郭が構築されています。(写真左上・写真右上) でっ、楯山は現在 公園整備がなされ、いくつか登山ルートが設けられていますが、管理人は南西麓からの登山ルートを選択しました。(写真左ー案内杭あり) でっ、登山道を登り始めた山麓部分の稜線は4−5段の段郭群に加工され(写真左下)、切岸部分に石積が見られます。(写真右下)
石積は小型の石塁を積んだ野面積で、楯岡満茂時代のものと思われます。 |
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(写真左上) 西側稜線の段郭群の石積 |
でっ、段郭群上段の平場から稜線は急傾斜となり(写真右上)、この部分は高低差の大きい堀切で遮断され、土橋で導線が確保されています。(写真右ー導線
写真左下ー土橋 写真右下ー導線) 切岸は高さ5−6mほど、土橋部分は石積で補強されていますが ・・・・・、たぶん後世のものか?。ま 〜〜〜、明確な坂虎口になっており、上位郭に木戸が設けられていたと思われます。 |
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楯岡城は稜線を段郭に加工したシンプルな縄張りになっていて、堀切から三の郭間は3−5mの段で区画された不規則な5−6段の段郭群になっています。(写真左上ー平場 写真右上ー切岸) でっ、よ 〜〜〜く見ると、切岸に土留めと思われる石積も見られます。(写真左) |
三の郭(写真左下) 規模は東西50m×南北20mほど、内部の削平は甘いようですが、北・南側は急峻な断崖になっています。でっ、側面に部分的に石積も見られます。(写真右下) |
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三の郭から二の郭間の稜線も段を防御主体とした5−6段の段郭群で処理されています。(写真左上・右上) 郭の規模はどれも東西10−25mほど、最大高5−6mと高い切岸で区画され、各郭を結ぶ導線は南側に設けられています。 |
二の郭(写真右) 規模は東西40m×南北20mほど、中央に手水石と呼ばれる石塁がありますが、何に使用したのかは不明。(写真左下) 特に土塁等の城郭遺構は見られませんが、東側に主郭に繋がる外桝形虎口が残っています。(写真右下) |
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主郭(写真左上) 規模は東西70m×南北40mほど、二の郭間は2−3mの段で区画されています。現地表示によると、ここに櫓が構えられていたようで(写真右上)、また戦時中 楯山防空監視哨が置かれていたようです。でっ、山頂部から北・東・南側に張り出した稜線には幾重にも帯郭・段郭群が敷設され、このうち南側の稜線が中楯山に繋がっています。(写真左ー北側の帯郭 写真左下・右下ー東側の段郭) 全体的に郭の規模は小さいですが、高い切岸で仕切られた強力な防御ラインになっています。 |
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西楯山と中楯山間の稜線鞍部は二重堀で仕切られ、このうち中楯山側の堀は遊歩道に利用されています。(写真左上・右上・右ー中楯山側の堀切) 規模はどちらも幅5−6m×深さ2−3mほど、ま 〜〜〜 後世の改変もありわかりずらくなっています。でっ、堀切から中楯山間は緩斜面を段差の低い郭群群に加工され、西側側面に導線が設けられています。(写真左下・右下) 各郭を仕切った段は2−3mほど、西楯山に見られる段郭群に比べるとユル 〜〜〜イ 感が否めません。 |
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中楯山を中心とした郭群も段郭を主体としたシンプルな構造になっていて、中楯山山頂から西楯山に繋がる北西側斜面には2段 腰郭が敷設されています。(写真左上ー西郭A 写真左ー西郭@) 規模は西郭Aが東西20m×南北15m、西郭@が東西20m×南北20mほど、西楯山からの導線は西郭Aの南側側面を通り(写真右上)、西郭@に繋がる構造になっています。でっ、西郭@の中央東端に櫓台と思われる高さ2mの土壇が築かれ、中楯山山頂とは幅5−6m×深さ3−4mの堀で仕切られています。(写真右下) |
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中楯山(写真左上) 規模は東西40m×南北30mほど(写真右上)、南東端に建物の基壇と思われる土盛が見られますが ・・・・・、詳細は不明。(写真右)
でっ、東から南側下に3mの段で幅15−20mの腰郭が敷設され(写真左下)、東楯山に繋がる稜線は幅5−6m×深さ3mの堀で遮断されています。(写真右下) 基本的な構造は西楯山と同じく 段を防御構造の主体としています。でっ、頂部は広いまとまった平場になっていますが、西楯山に見られる桝形等 目新しいパーツは設けられていないようです。 |
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中楯山から東楯山に繋がる稜線は痩せ尾根になってはいますが、特に防御施設は設けられていません。(写真左上・右上) でっ、稜線と東楯山山頂部との高低差は15−20mほど。(写真左) 東楯山の規模は東西150m×南北30mほど、公園整備され かなり広い平場になっています。(写真左下) 中楯山と痩尾根で繋がっていますが、北ー東ー南側は急斜面の断崖になっていて独立性が高く、非戦闘員の避難郭としては最適な場所と思われます。なお内部に龍石と呼ばれる石塁がありますが由来は不明。(写真右下) |
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楯岡城からは楯岡市街地や村山盆地が一望にでき、また最上氏の庶流 長瀞氏の拠した長瀞城や最上満国が当初、居住したと伝えられる長瀞本館方向を望むことができます。 |
最上満国の墓所
楯岡城の北東麓、祥雲寺にあります。祥雲寺は応永13(1406)年、最上満国が楯岡城の「鬼門除け」として開基したと伝えられ、以後 楯岡氏の菩提寺となりました。 |