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中里城は岩木川に沿って広がる津軽平野北東端の丘陵上(比高50m)に築かれた平山城で、規模は東西150m×南北350mほど。郭配置は大きくは北、南側のピークに構築された北郭、南郭の2郭を中心に展開され、両郭は細長い尾根で繋がっています。このうち北郭 |

現地説明板の図(北郭部分) |
は東西90−100m×南北30−40mほど、周囲に幅5m前後×深さ2−3mの横堀が敷設されています。内部は中央に穿たれた幅5mの南北堀で東・西の2郭に分割され、西側の郭に土塁が築かれていることから、西側の郭に優位性があったものと思われます。南郭は30−40m四方ほど、現在は神社の境内になっていて、西ー南側に低い段差で幅5m前後の帯郭(犬走)が巻かれています。
中里城は古代ー中世の複合遺跡と推測され、平安期の堀、土塁、木柵で囲郭された「古代防御性集落」(古代ムラ)を初源とするようです。その後、鎌倉ー室町期 中世城館として整備されたと推測されますが、詳細・城主等は不明。15世紀初期頃まで津軽平野は十三安藤氏に支配されており、城主は安藤氏の一族または家臣が想定され、安藤氏、南部氏の武力抗争期(15世紀中期)、安藤氏の軍事拠点として機能していたと推測されます。なお発掘調査より15世紀後半以降の遺物が発見されていないことから、安藤氏が南部氏に敗れ、蝦夷地に追い落とされた永享4(1432)年頃 廃城になったものと思われます。(一説に嘉吉年間とも) |