柴 崎 城
青森県北津軽郡中泊町(旧小泊村)大山長根
立地・構造
 柴崎城は津軽半島の北西部、小泊湾に面した丘陵斜面(海面から比高50m)に築かれた平山城で、北側(小泊湾)に面した急斜面を切り開いて郭を敷設した単郭構造(?)の城砦と思われます。本郭の規模は東西120m×南北30mほど、本郭は北側が小泊湾に面した絶壁、東ー南ー西側は馬蹄状の稜線に囲まれ、東側の北方向に延びた土塁状の小尾根を切り開いて虎口が設けられ、内部には数段にわたり段郭が敷設されています。全体的に規模の小さい城砦ですが、恒常的な居住空間をともなった城館と推測され、また海に面した斜面を切り開いて構築された特異な城郭です。

 築城時期・築城主体ともに不明。一説には寛喜元(1229)年、藤崎城から十三湊に本拠を移した安藤氏が蝦夷地を支配、管理する拠点として築いたとも。また暦応3(1340)年の大津波で十三湊が壊滅したため、新たな安藤水軍の軍港として小泊湊が整備された際、築かれたとも。室町中期、三戸南部左馬権守守行は応永18(1411)年 「陸奥国司」に任じられ、虎視眈々と津軽制圧を狙っていましたが、守行のあとを継いだ嫡子 遠江守義政は永享12(1440)年、安藤盛季の娘をめとり安藤氏と姻戚関係となりました。そして嘉吉3(1443)年、義政の弟 政盛は安藤盛季に招かれて福島城を訪れましたが、不意を衝いて福島城を急襲し福島城を乗っ取ることに成功しました。このため盛季は唐川城に立て籠もり南部勢と対峙しましたが、その後 唐川城から柴崎城に退却し、さらに蝦夷地に落ち延びたと伝えられます。盛季以降、安藤氏は盛季の嫡子 康季、嫡孫の義季が津軽奪還をめざして何度も津軽侵入を企てましたが、その都度 南部氏に追い落とされ、享徳2(1453)年 義季は津軽「大浦郷」で討死にしました。その後、安藤氏(下国家)の家督は盛季の弟 潮潟四郎道貞の嫡孫 政季が継ぎ、応仁ー文明年間(1467−87年)頃 政季は出羽国「檜山郡」に入部します。そしてこの頃、安藤氏の残党は津軽西海岸に盤踞し、以後 檜山安東氏の支配下に置かれていたものと思われ、柴崎城もまた檜山城主 安東実季(「秋田城介」)が慶長6(1601)年、常陸国宍戸に国替になるまで安東氏の支配下にあったものと推測されます。
歴史・沿革
柴崎城 本郭の城址碑
メモ
十三安藤氏が最後にたて籠もった「さいはての城砦」
形態
平山城
別名
 ・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・土塁・虎口?・堀?
場所
場所はココです
駐車場
神明宮駐車場借用
訪城日
平成19(2007)年6月22日
柴崎城は小泊湾に北面した断崖斜面を切り開いて構築された平山城で、現在は神明宮の境内になっています。(写真左上) でっ、城へは東側にある鳥居まで狭いながら車道が敷設され、ここから城内に入ることができます。(写真右上ー鳥居) 鳥居のすぐ背後には北側に延びた小尾根を切った虎口(?)が見られ、城内に繋がっています。(写真左・左下) 虎口自体は神明宮創建時の開削とも思われますが、虎口の外(東)側に湿地状の堀らしきものも見られ(写真右下)、なんとも判断の難しい部分ではあります。
本郭(写真左上)
規模は東西120m×南北20mほど、北側にむかって数段にわたり平場が見られますが、往時の遺構かどうかは不明。平場は小泊湾に面した北向きの斜面を切り崩して構築されています。 (写真右上)城址碑
小泊港(写真右)
十三湊壊滅(暦応3 1340年の大津波)後、十三安藤氏が整備した港湾と伝えられ、十三湊の代港(軍港)として機能したようです。
秋田の中世を歩く