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相内館は馬淵川の左岸、相内地区背後の南方向に張り出した低丘陵突端(比高20m)に築かれた単郭の丘城です。規模は東西70m×南北130mほど、以前は相内小学校の敷地で、現在は神明社と民家になっています。遺構としては西側に土塁と東・西側に虎口が見られます。
築城時期は不明。『奥南旧史録』によると「奥州藤原討伐」で軍功のあった甲斐国「南部郷」の領主 南部三郎光行は陸奥国「糠部郡」を所領として宛がわれ、建久2(1191)年 「糠部郡」に下向 |
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しました。当初、光行は相内観堂を一夜の宿としましたが、観音堂に近い丘陵上に相内館を築くべく、家臣、村民総出で一夜のうちに堀を巡らしたと伝えられます。そして光行は相内館滞在中に在地領主の蛇沼館主 蛇沼惣左衛門、相米館主 総米弥左衛門、上砂子喜左衛門等を支配下におさめ、さらに田子の佐々木氏、原氏、斗内氏、福田氏、豊川氏、日ノ沢氏等を従属させました。同4(1193)年、光行は支配拠点として新たに平良ヶ崎城を築き、相内館から移り住んだと伝えられます。その後の相内館の消息は不明ですが、南部本城 平良ヶ崎城、聖寿寺館の北方を守備する支城として機能したものと推測されます。 |
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聖寿寺館の支城? |
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丘城 |
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一夜堀館・花見館 |
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場所はココです |
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路上駐車 |
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平成20(2008)年10月2日 |
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相内館は相内地区背後の丘陵上に築かれた丘城です。(写真左上ー南側からの遠景) 城は北から南方向に張り出した半島状の地形になっていて、東ー南ー西側は高さ15−20mの断崖(写真右上ー東側の切岸)、北側の丘陵続きを堀で断ち切って城域を区画していたようです。(写真左ー北側の堀祉か?)
でっ、館へは南側に登り口が設けられ(写真左下ー案内杭あり)、テクテク登ると館南端の相内農村公園に辿り着きます。(写真右下) 内部には神明宮が祀られ、西側縁部に高さ1mの土塁が残存しています。 |
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(写真左上) 神明宮 |
(写真右上) 西側縁部の土塁 |
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相内観音堂(写真右)
館祉の南東側下に位置します。鎌倉初期、糠部郡に入部した南部光行一向が一夜を過ごしたと伝えられる御堂。光行に同行した七十三騎は御堂の周囲に宿営したのでしょう。 |
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