|
福田館は馬淵川の右岸、南から北方向に張り出した河岸段丘の先端(比高10−15m)に築かれた崖縁城です。城の規模は東西230m×南北170mほど、北側は段丘崖で仕切り、東ー南ー西側は堀を穿って城域を区画した単郭の方形館と推測されます。現在、内部は瑞泉寺の境内、一般の民家、工場になっていて遺構はないようです。堀も東・西側は車道に改変され、南側は完全に消滅しています。また西側の堀は二重堀だったと伝えられ、内堀が部分的に残存しています。
|
 |
(藪でわかりずらいですが ・・・・・) 北側の段丘崖の下にも堀が普請されていたとさ れますが未確認。全体的に要害性は薄く、基本的には村落領主の日常居館と推測されます。なお南西600mには古館があります。
築城時期・築城主体ともに不明。館主は三戸南部氏支配下の在地領主 福田氏と伝えられます。福田氏の出自・事績等は不明ですが、在地から発生した開発領主と思われ、天正年間(1573−92年)、福田掃部は南部大膳大夫信直から千石の所領を安堵されています。慶長年間(1596−1615年)、南部信濃守利直が九戸城から盛岡城に移ると福田氏もこれに同道し、この際 福田館は廃されたものと推測されます。なお寛文5(1665)年、八戸南部藩成立で福田村は八戸藩領に編入されました。 |
|
|
|
三戸南部配下の村落領主 福田氏の館城 |
|
崖縁城 |
|
・・・・・・・・ |
|
郭(平場)・堀祉 |
|
場所はココです |
|
路上駐車 |
|
平成20(2008)年10月3日 |
 |
 |
 |
福田館は馬淵川右岸の河岸段丘先端に築かれた崖縁城です。(写真左上) 城は北側を段丘崖で(写真右上)、東ー南ー西側は人為的な堀を穿って区画していたとされます。でっ、南側の堀は消滅していますが、東・西側の堀は車道に改変されています。(写真左・左下ー東側の堀)
また西側の堀は二重堀とされ、内堀が部分的に確認できます(写真右下ー藪が酷く写真では?ですが ・・・・・) また北側の段丘崖下にも堀(濠)が設けられていたようです。(未確認) |
|
 |
 |
 |
 |
福田館の規模は東西230m×南北170mほど、館内部は現在、瑞泉寺の境内、一般の民家敷地、製材工場等になっていて遺構はないようです。(写真左上・右上) |
|