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上 名 久 井 館 |
青森県三戸郡南部町(旧名川町)上名久井 |
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上名久井館は馬淵川の右岸、名久井岳の東麓 上名久井地区の低丘陵(比高15−20m)に築かれた平山城です。館は西から東方向に延びた丘陵を堀で仕切った東郭ー西郭ー家臣屋敷地からなるシンプルな連郭構造で構築され、東郭が主郭と想定されます。東郭の規模は東西80m×南北100mほど、西郭とは幅10mの堀で仕切られています。西郭は東西100m×南北80mほど、西側に堀が穿たれ家臣屋敷地と仕切られてい |
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ます。大手は東郭の北西側、搦手は南側と想定されます。現在、館内部は果樹園、一般の宅地に改変されていますが、郭・堀が改変されながらも残存しています。
築城時期は不明。天正20(1592)年の『南部大膳大夫分国之内諸城破却書上之事』には「名久井 平地 南部中務持分」と記され、城主は南部氏の庶流 東氏とされます。上名久井館の初源は在地土豪 工藤氏の居館と伝えられ、15世紀中期 三戸南部遠江守義政の子 政継が名久井に入部して上名久井館に拠したとされます。そして政継の家系は東氏を称して北氏、九戸氏とともに南部氏配下の有力国衆に成長します。永禄10(1567)年、根城南部氏と七戸氏が対立すると東中務政勝は櫛引氏とともに根城を攻撃しています。元亀元(1570)年、南部大膳大夫晴政に実子 晴継が誕生し、晴政が嗣子としていた田子信直と対立した際、政勝は晴政を支持して信直派の北氏を攻撃しました。天正10(1582)年、南部晴継死去により南部家の家督争いが勃発すると、政勝は南部晴政の娘婿
九戸実親を支持しましたが、家督は浅水城主 南弾正少弼盛義、剣吉城主 北左衛門佐信愛、根城八戸薩摩守政栄が支持する田子信直が継ぐこととなります。その後、政勝は信直派に転向し、嫡孫の中務尉朝政は天正19(1591)年に勃発した「九戸の乱」では信直方に加担しています。なお南部家の『慶長 館持支配帳』には「名久井館 三千石 東彦左衛門」と記されています。 |
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三戸南部氏の庶流 東氏の館城 |
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平山城 |
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郭(平場)・堀 |
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場所はココです |
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路上駐車 |
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平成20(2008)年10月3日 |
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上名久井館は馬淵川の右岸、上名久井地区の低丘陵地に築かれた平山城です。(写真左上) 館は東方向に延びた丘陵を堀で仕切った2郭(東郭・西郭)からなり、東郭が主郭と想定されています。東郭の規模は東西80m×南北100mほど(写真右上)、西郭とは幅10mの堀で仕切られています。(写真左) 西郭は東西100m×南北80mほど(写真左下)、西側は堀が穿たれ家臣屋敷地と仕切られていました。(写真右下) |
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