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森ノ越館は馬淵川右岸の河岸段丘上(比高15−20m)に築かれた単郭?の崖縁城で、西ー南側を段丘崖で、北ー東側は人為的な堀を穿って城域を区画していたと思われます。規模は推定
東西100m×南北200mほど、基本的には在地勢力の日常居館と推測されます。現在、内部は一部 宅地になっていますが、大部分は荒地になっていて、北側の堀は消滅し(北十左衛門の首塚前に一部
濠として残っています)、また東側の堀は車道で改変されているようです。
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築城時期・築城主体ともに不明。館主としては新堀作兵衛、北十左衛門信景の名が伝えられていますが、新堀氏については詳細不明。北十左衛門信景は「南部譜代」 桜庭光康の次男で、南部庶子家の北左衛門佐信愛(剣吉城主)の養子となり、北十左衛門と名乗りました。信景は南部大膳大夫信直、信濃守利直父子に仕え、慶長5(1600)年の「関ヶ原」時に勃発した「和賀稗貫一揆」では南部軍の主力として出陣し、一揆を鎮圧しています。また鹿角白根金山を発見して奉行をつとめ南部家の財政に貢献しました。しかしその後、信景は南部利直と不和となり南部家から転出し、慶長19(1614)年に勃発した「大阪の陣」では豊臣方に加担して大阪城に入城しました。そして信景は「大阪の陣」で「南部の光武者」と称される活躍を見せましたが、戦後 捕縛されて南部家に引き渡され処刑されたと伝えられます。 |