陸奥の城
 聖 寿 寺 館
青森県三戸郡南部町小向字聖寿寺
立地・構造
 聖寿寺館は馬淵川の左岸、北から南方向に張り出した舌状台地先端(比高15−20m)に築かれた平山(崖縁)城です。城の規模は東西300m×南北250mほど、南ー西側は段丘崖で画され、東側は沢を利用した堀で、北側は丘陵を断ち切った人為的な堀で区画されています。堀の規模は東堀が幅10−15m×深さ5−6m、北堀が幅10m前後×深さ3−4mほど。内部は広大な平場になっており、複数の郭に
分けられていたと推測されますが詳細不明。現在は耕作地、荒地、一般の民家宅地になっていて遺構は残っていませんが、北ー東側の堀祉が残存しています。

 平安末期、「奥州藤原討伐」で軍功のあった甲斐源氏 加賀美信濃守遠光の三男 南部光行は陸奥国糠部郡に所領を宛がわれ、建久2(1191)年 三戸に赴きました。そして糠部郡に到着した光行は当初、相内館を拠点としましたが、翌3(1192)年 平良ヶ崎城を築くと、代官を置いて鎌倉に戻りました。『南部家系図』によると、光行は庶長子 行朝を一戸に、三男の実長を八戸に、四男の朝清を七戸に、五男の宗朝を四戸に、六男の行連を九戸に所領を分知し、次男の実光に南部家の家督を継がせ、三戸南部惣領家が庶子家を惣領支配したとされます。(鎌倉末期の糠部郡は南部氏以外の工藤氏等の領地になっていて、糠部郡は南部氏の一円支配の地ではなかったようですが ・・・・・、また光行の所領分知にもムリがあるようです) 元弘3(1333)年、新田義貞が鎌倉を攻略した際、南部惣領家の茂時は幕府執権 北条相模守高時方に加担して自害し、「糠部代官」をつとめていた南部(後の八戸)遠江守政長は新田方に与しました。南北朝期、陸奥に下向していた南部庶子家の波木井師行は、南朝方に加担して「陸奥国代」に任ぜられ南朝方の拠点として根(八戸)城を築き、陸奥の北朝勢力と対峙しました。この頃の南部惣領家(三戸)の動向は不明ですが、八戸南部氏の支援を受けて陸奥の南朝勢力に加担していたと推測されます。貞和2(興国7 1346)年、南部遠江守政行は足利尊氏の誘いに応じて北朝方に寝返り、その後 政行の嫡子 大膳大夫守行の代の元中9(明徳3 1392)年、「南北朝合一」がなると三戸南部氏の勢力は拡大されました。そして守行の代に南部氏は、応永23(1416)年の「上杉禅秀の乱」で幕府軍に加担して出陣し、永享4(1432)年には出羽国仙北郡に侵攻して小野寺、湊安東氏を制圧して仙北郡の領有に成功しています。(仙北制圧は根城南部氏主体とする説あり) また同7(1435)年、「和賀煤孫の乱」(和賀氏の内訌)に軍事介入して稗貫、和賀郡に勢力を拡大させました。しかし同9(1437)年、気仙の岳波太郎、唐鍬崎四郎兄弟が大槌氏とともに阿曽沼氏の遠野横田城を攻撃すると、守行は阿曽沼氏を救援するため大槌城を攻撃しましたが、陣中で討死にしました。そして守行の跡は嫡子の大膳大夫義政が継ぎましたが、義政もまた同12(1440)年に勃発した「結城合戦」の陣中で病死しました。しかし南部氏はこの守行ー義政の代に糠部郡の他に葛西、大崎、和賀、紫波、閉伊、仙北、由利、庄内、越後境まで影響力を拡大し飛躍的に成長しました。義政の跡は次弟の政盛が継ぎましたが病弱のため、さらに三弟の助政が家督を継ぎました。しかし相次ぐ当主の交代は支配下の在地国衆に対する統制を弱体化させ、光政の代の寛正年間(1460−65)年、南部氏は湊安東、小野寺連合軍との抗争に敗れ、出羽仙北郡の支配を断念しました。そして弱体化した三戸南部氏がふたたび勢力を盛り返したのは16世紀初期の当主 南部右馬允安信の代とされます。安信は大永元(1521)年、紫波郡を狙う和賀氏を撃退、同7(1524)年 津軽の反南部勢力の反乱を鎮圧して、次弟の左衛門尉高信を「津軽郡代」として津軽石川城に、三弟の長義を五戸浅水に、四弟の紀伊守信房を石亀へ、五弟の靭負佐秀範を「鹿角郡代」として鹿角毛馬内に送り込み領国支配を強化しました。そして安信のあとを継いだ嫡子の大膳亮晴政は天文3(1534)年、胆沢郡で柏山伊勢守と対峙し、同5(1536)年には五戸工藤氏の反乱を鎮圧、同6(1537)年には和賀薩摩守義勝を攻撃しています。しかし南部氏の南下を危惧した高水寺城主 斯波氏、瀬川城主 稗貫氏、飛勢城主 和賀氏は一揆して南部氏に対応したため、晴政は斯波郡からの撤退を余儀なくされました。『南部史要』によると聖寿寺館は天文8(1539)年、三戸南部氏の被官 赤沼備中の放火に遭い焼失しました。その後、永禄年間(1558−70年)頃 晴政は領内の留ヶ崎に三戸城を新たに築き、このため聖寿寺館は再興されることなく廃されたと伝えられます。
歴史・沿革
聖寿寺館 北側の堀祉
メモ
三戸南部氏の本城
別名
本三戸城
形態
平山(崖縁)城
遺構
郭(平場)・堀祉
場所
場所はココです
駐車場
三光寺の駐車場借用
訪城日
平成18(2006)年9月8日 平成20(2008)年10月2日
聖寿寺館内部は現在、果樹園と一部 宅地化になっていて、相当 改変を受けていると思われますが(写真左上・右上)、北ー東側に堀の痕跡が明瞭に残存しています。(写真左ー東側の堀、車道になっていますが、幅10m以上×深さ5−6mほど 写真左下ー北側の堀) また南端部に源氏の守護神 若宮八幡が祀られています。(写真右下) 社は聖寿寺館の館神だったのかも。
南部利直の霊屋は拝観できますが写真撮影は不可。また南部利康の霊屋は一般公開されておらず ・・・・・、写真画像は南部利直の霊屋の拝観パンフレットをスキャナしたもの。(左上・右上)
平良ヶ崎館(写真右)
聖寿寺館の東方1kmに位置する平山城で聖寿寺館に関連した城館と思われます。館は南方向に張り出した低丘陵突端(比高10−15m)に位置し、規模は東西170m×南北200mほど。内部は荒地になっていて(写真左下)、北側に堀祉が残っています。(写真右下) (場所はココです)
八木橋藤十郎の墓石
八木橋藤十郎は南部利康に仕えた近習で、利康が死去した翌月の忌日 寛永8(1631)年12月21日に殉死したと伝えられます。
南部実光墓所
聖寿寺館の北側一帯は三戸南部氏の菩提寺 三光寺の境内になっていて、境内には南部信直夫妻の墓所、南部実光(南部二代当主)の墓所、南部利直の霊屋、南部利康の霊屋が残存しています。