陸奥の城
 苫 米 地 館
青森県三戸郡南部町(旧福地村)苫米地
立地・構造
 苫米地館は馬淵川左岸の河岸段丘先端(比高10m)に築かれた単郭の平城で、南側は馬淵川で、東ー北ー西側は馬淵川の旧河道を濠として城域を区画していたと推測されます。主郭の規模は東西90m×南北120mほど、周囲に土塁が築かれていたと思われますが、現在 痕跡は確認できません。主郭の周囲は高さ6−7mの切岸に加工され、現在 周辺は公園整備で改変されていますが、往時は馬淵川に接した湿地帯と推測されます。大手は北側と推測され、現在もこの方向から城に
繋がっています。基本的には開発領主の日常居館として築かれたものと思われます。

 築城時期・築城主体ともに不明。伝承によると館主 苫米地氏は15世紀中頃、「相州山ノ内上杉管領ノ後、民部少輔保家没落して下向 南部信時に仕へ 糠部郡苫米地に住す」と伝えられ、戦国初期頃 三戸南部氏に出仕した在地領主とされます。天正19(1591)年に勃発した「九戸の乱」で苫米地因幡は浅水城主 南弾正少弼盛義、剣吉城主 北左衛門佐信愛等とともに南部信直方に加担して九戸左近将監政実方の櫛引城主 櫛引清長と対峙しています。同年9月、櫛引清長は浅水城を攻撃しましたが失敗して法師岡まで撤退し、清長はここで追撃する浅水南勢を迎撃しています。(「法師岡の戦」) この際、苫米地館も櫛引勢の攻撃を受けましたが、高橋館主 高橋駿河の支援をうけた苫米地因幡に撃退されたと伝えられます。廃城時期は不明。 
歴史・沿革
苫米地館 東側の濠祉
メモ
三戸南部氏配下の在地領主 苫米地氏の館城
形態
平城
別名
・・・・・・・・・ 
遺構
郭(平場)・濠祉
場所
場所はココです
駐車場
苫米地ふれあい公園駐車場
訪城日
平成20(2008)年10月3日
苫米地館は馬淵川の北岸、北から南方向に張り出した孤島状の低丘陵に築かれた単郭の平城で(写真左上)、往時 城の東ー南ー西側は馬淵川に接した湿地帯に囲まれていたと推測されます。現在、館祉は公園整備で改変され、遺構等は消滅していますが、南ー西側に高さ6−7mの切岸が見られ(写真右上ー南側の切岸 写真左ー西側の切岸)、また北東側に馬淵川の旧河道を利用したと思われる濠祉が残存しています。(写真左下) 主郭の規模は東西90m×南北120mほど。(写真右下)
(写真右) 東側の濠祉
 
秋田の中世を歩く