芳 徳 禅 寺
奈良県奈良市柳生下町
 正式名称は「神護山 芳徳寺」、宗派は臨済宗大徳寺派、御本尊は釈迦如来。創建は寛永15(1638)年、大和国柳生藩主 柳生但馬守宗矩(むねのり)が亡父 石舟斎宗厳の菩提を弔うため、もともと中世 柳生城の郭の一部に沢庵宗彭を招いて開基したとされます。そして宗矩の四男 列堂義仙(れつどうぎせん)を第一世住持とし、柳生家から二百石の寺領が給されました。明治初年の「廃藩置県」後、芳徳禅寺は荒廃して山門や位牌堂・梵鐘が売却され無住の寺院となりましたが、大正11(1922)年 尾張柳生家の末裔である柳生基夫氏が多額の資金を寄贈して本堂を再建。同15(1925)年、橋本定芳和尚が赴任して芳徳禅寺は再興されました。本堂裏の境内には柳生家の墓地が設けられ、当主や一族 八十基あまりの墓碑が建てられています。平成4(1992)年、本堂と柳生家墓所が奈良市の文化財に指定。(場所はココです)
境内に建つ「石舟斎塁城祉」 
芳徳禅寺は中世 柳生城の郭の一部に創建されています。たぶん ・・・・・、境内はまとまった平場になっており、柳生氏の日常居館が構えられていたのでしょう。でっ、西側縁部には土塁が築かれています。
境内西縁に残る土塁
山門 
本堂 
宝永8(1711)年の火災により焼失し、正徳4(1714)年に再建。また明治初年の「廃藩置県」後、伽藍は荒廃しましたが、大正11(1922)年に再建されました。
本堂内部 
柳生宗矩公座像
慶安4(1651)年の宗矩の「七回忌」の際、柳生宗冬が京の大仏師康看に彫らせたもの。本堂の須弥壇に安置されています。
柳生家墓所 
左から三代 宗冬(左)、初代 宗矩(中)、二代 十兵衛三巌の墓碑(右)
宗矩の戒名 「西江院殿前但州太守大通宗活大居士」
三巌の戒名 「長岩院殿金甫宗剛大居士」
宗冬の戒名 「常林院殿前飛州太守決厳公大居士」
初代 宗矩の墓碑
二代 十兵衛三巌の墓碑
左から三代 三巌(左)、四代 宗在(中)、六代 俊平の墓碑(右) 
左から八代 俊則(左)、九代 俊豊(中)、十一代 俊能の墓碑(右)
正木坂道場
昭和38(1963)年、当時の橋本定芳和尚により開設された、剣術と座禅の道場。建物は奈良地方裁判所として使用されていた興福寺別当一乗院の建物、正面玄関は京都所司代の玄関を移築したもの。(内部は未確認)