山 根 館
秋田県にかほ市(旧仁賀保町)院内
立地・構造
 山根館は由利丘陵の中央西縁、寒沢川左岸の東から西方向に張り出した稜線突端(標高203m 比高170m)に築かれた山城で、東側の丘陵続きを堀切で遮断して城域を独立させています。城の規模は東西550m×南北250mほど、城縄張りは東端のピークに構築された主郭を中心に北ー西側斜面を段郭群に加工した単調な構造になっ 山根館 現地説明板の図
山根館 現地説明板の図(下が北方向)
ています。主郭の規模は東西100m×南北50mほど、内部からは発掘調査により建物礎石が200個以上確認され、主殿殿舎を含む建物が四棟あったとされます。東縁に高さ2−3mの土塁が築かれ、北東端はL字状の低土塁で区画された一郭が設けられています。(鬼門除けか?) 大手筋は西麓からのルートが想定され、なだらかな緩斜面を通る導線は削平地の側面を通るように設定され、また中腹部に堀切が敷設され、主郭に近ずくと導線の側面に横堀が隣接され、導線を遮る構造になっています。『院内山根館絵図』によると表御門前に「赤石殿」「黒川殿」と記された屋敷地があることから、基本的には城主居館、家臣の役宅地を含む古いタイプの館城だったと推測されます。

 築城時期・築城主体ともに不明。城主 仁賀保氏は信濃源氏 小笠原氏の流れを汲む大井氏の裔とされます。建暦3(1213)年の「和田の乱」後、源頼朝の側室 大弐局は「由利郡」を所領として宛がわれ、その後 「由利郡」は大弐局の甥(兄の子) 大井朝光に相続され、朝光の庶子家(一族)が「由利郡」の地頭代として入部したものと思われます。そして大井氏は「津雲出郷」(現在の矢島周辺)に入部し由利氏を称しましたが、その後 「仁賀保郷」に進出したとされます。しかし正中元(1324)年、由利政春は鳥海弥三郎宗盛の攻撃を受けて由利は滅亡し、鳥海氏もまた家臣の叛乱により滅亡しました。その後、「由利郡」の歴史は室町末期まで不明瞭になります。仁賀保氏の祖 大井伯耆守友挙(ともきよ)は応仁元(1467)年、「鎌倉府」から任命され「仁賀保郷」に入部したと伝えられます。友挙は「関東管領」 上杉氏に近侍した大井氏の庶流と思われ、当時 治安が乱れていたとされる(?)「由利郡」に上杉氏の命により入部したとされます。当初、友挙は待居館に居住しましたが、翌2(1468)年 由利氏の拠点であった山根館を改修して居住したと伝えられます。この頃、「由利郡」に盤踞していた在地国衆は「由利十二頭」と呼ばれ、近隣の大勢力の動向によって、分裂と闘争を繰り返していました。そして仁賀保氏は庄内尾浦城武藤(大宝寺)氏の影響を受けることが多く、また矢島根城館主 大井氏は横手城主 小野寺氏との関係が強く、次第に仁賀保氏は矢島大井氏と対立するようになります。永禄3(1560)年、矢島大井氏と滝沢氏の間で諍いが起こると、仁賀保大和守挙久(きよひさ)は滝沢方に加担して出陣しています。そして天正2(1574)年、ふたたび矢島大井氏と滝沢氏の抗争が勃発すると挙久は滝沢方に加担し、同4(1576)年 矢島領に侵攻しましたが迎撃され討死しました。そして翌5(1577)年、挙久のあとを継いだ挙長はふたたび 矢島領に侵攻しましたが、仁賀保勢は矢島大井勢に惨敗を喫し挙長は討死しました。その後、挙長のあとは従兄弟の重挙が継ぎましたが、矢島大井氏は仁賀保家中を調略し天正11(1583)年、重挙を謀殺しました。この間 周囲の情勢も大いに変化し、天正10(1582)年 庄内(大宝寺)の武藤出羽守義氏が「由利郡」に侵攻して武藤氏に従属しない荒沢館主 小助川治部少輔を攻撃しています。(「荒沢の戦」) また同年、横手城主 小野寺遠江守義道と「由利十二頭」連合軍が「大沢山の戦」を引き起こしています。(管理人は「大沢山の戦」はフィクションだと思っていますが ・・・・・) 同14(1586)年、子吉氏から仁賀保氏に入婿した仁賀保挙晴は矢島領に攻め込みましたが矢島大井勢に撃退され討死し、仁賀保氏の家督は小介川氏から入嗣した兵庫頭挙誠(きよしげ)が継ぎました。天正18(1590)年、仁賀保挙誠は豊臣秀吉の小田原の役」に参陣して所領を安堵され、以後 豊臣政権下の一大名として「九戸の乱」「文禄の役」等の軍役、賦役を担いました。同19(1592)年、矢島大井満安が最上義光に山形城に招かれた隙に矢島大井氏の家臣が叛乱を起こします。このため満安はすぐに矢島に戻りクーデターを鎮圧しましたが、挙誠が矢島領に侵攻して矢島氏を攻撃したため、満安は西馬音内城の舅 西馬音内茂道のもとに遁れ、後に自害に追い込まれました。(管理人は大井満安が死去したのは天正18年の「奥州仕置」以前と推測していますが ・・・・・) これにより仁賀保氏と矢島大井氏の長年にわたる抗争は仁賀保氏の勝利で終結し、仁賀保氏は根井氏、潟保氏、子吉氏を支配下に置き、豊臣政権下で「由利十二頭」「由利五人衆」に再編されました。慶長5(1600)年、「関ヶ原の戦」が勃発すると挙誠は東軍に加担して最上氏とともに庄内で上杉勢と対峙し、戦後 常陸国武田五千石に移封されました。しかし元和9(1623)年、「最上騒動」により最上氏が改易になると、挙誠はふたたび仁賀保に所領を宛がわれ旧領を回復しました。そして挙誠のあとを継いだ蔵人良俊が七千石を知行し、弟の内膳誠政が二千石、内記誠次が千石を分知され、良俊が嗣子のないまま死去したため仁賀保氏嫡流は断絶しましたが、分知された弟ふたりの家系は徳川旗本として存続し「明治維新」まで続きました。山根館は慶長7(1602)年、挙誠が常陸転封した頃に廃城になったものと推測されます。
歴史・沿革
山根館 主郭
メモ
「由利十二頭」 仁賀保氏の館城
形態
山城
別名
・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・建物礎石・庭園祉・堀・石積
場所
場所はココです
駐車場
主郭東側に専用駐車場あり OR 院内地区から登る場合ー院内地区の七高神社の駐車場借用
訪城日
平成18(2006)年11月6日 平成20(2008)年5月12日 令和3(2021)年4月12日
山根館 遠景
山根館は日本海を望む由利丘陵の中央西端、院内地区背後の丘陵上に築かれた山城です。(写真左上ー西側からの遠景) でっ、へは北西麓から「塩の道」主郭まで通っているほか、林道を車で登ることもできますが、今回は大手とされる西麓からの道を登りました。登り口は陽山寺(写真右上)を南方向に進み案内図のある二股で林道へ進みます。(写真左) でっ、しばらく進むと山根館への案内杭があり(写真左下)、ここから登りました。でっ、中復部から道は削平地の中や側面を通るように設定されています。(写真右下)
(写真左上) 大手導線沿いの堀切
(写真右上) 大手導線沿いに見られる横堀 
でっ、登山道を登り辿り着くのが主郭の北西側下で、前面に主郭北側の腰郭が広がっています。(写真右) 主郭と腰郭の高低差は4−5mほど、主郭へは北西側下から主郭西側の腰郭を経て、導線が設けられています。(写真左下ー北西側からの導線 写真右下ー西側の腰郭、内部は仕切り土塁で南北の2郭に分割されています、武者隠しか?)
山根館 主郭北側の腰郭
山根館 主郭西側の腰郭
山根館 主郭 山根館 主郭
主郭(写真左上ー東側から 写真右上ー西側から) 規模は東西100m×南北50mほど、内部から建物礎石が200個以上確認され、主殿殿舎を含む建物が四棟あったとされます。(写真左ー主郭の模式図 写真右下ー主郭建物の推定復元図) でっ、東縁に高さ2−3mの土塁が築かれ、北東端に石塁土塁列でL字状に区画された一郭が見られます。
山根館 主郭の東土塁 山根館 主郭の東土塁
(写真左上・右上) 東側の土塁、下幅5−6m×高さ2−3mほど。
(写真右) 北東隅のL字状の低土塁で区画された一郭。鬼門除けか?。
(写真左下) 城址碑 
主郭背後(東側)は巨大な堀切で分断され、山根館を独立させています。(写真右下) 規模は幅10−15m×深さ7−8mほど、堀底は主郭北側下を巡り西側斜面に延びています。
山根館 主郭の北東隅
山根館 主郭の堀切
主郭からの眺望は素晴らしく、日本海側の仁賀保平野が一望にできます。(写真左上)
主郭部分はかなり整備されていますが、それ以外の場所は ほぼ100%無整備、藪茫々。がっ、一歩 内部に入ると横堀や削平地、石積が良好な状態で確認できます。(写真右上ー主郭北側下の横堀、主郭側を5−6m切り落とした幅7−8mの堀 写真左ー主郭北側下の削平地 写真左下ー削平地の縁部に見られる石積 写真右下ー主郭西側下の削平地) 『院内山根館絵図』によると表御門前に赤石殿黒川殿と記された屋敷地があることから、主郭周囲には家臣団の役宅が設けられていたのでしょう。
院内の十王堂 長命の泉
十王堂長命の泉(写真左上) 院内地区の東部にあります。「現地説明板」によると1200年頃、喜蔵家の祖 佐藤丹後守が掘ったとされる仁賀保氏愛飲の名泉と伝えられます。
でっ、山根館へは大手道の他に院内地区東端から山根館廃城後に敷設された「塩の道」で登ることもできます。(写真右上) でっ、登り口に馬頭観音にあります。(写真右)
禅林寺(写真左上) 応徳2(1085)年以後、由利維安により創建された由利氏の菩提寺ですが、仁賀保氏が山根館に入城以降、仁賀保氏の菩提寺となりました。境内に明治期、旗本 仁賀保右京家の家臣により整備された仁賀保氏の墓所が設けられています。(写真右上)
ー 動画 山根館を歩く ー
秋田の中世を歩く