二 本 松 城
福島県二本松市郭内(霞ヶ城公園)
立地・構造
 二本松城は二本松市街地北方の南東方向に張り出した丘陵先端(標高334m 比高120m)に築かれた平山城です。城の規模は東西450m×南北600mほど、城縄張りは頂部に構築された主郭(近世の本丸)を中心に南東、南西方向に馬蹄状に延びた稜線を郭群に加工し、両尾根に挟まれた谷戸部(近世の二の丸)を囲い込む構造になっています。本丸・二の
は近世の石垣が復元されていますが、本丸の北西側尾根は多重堀切で丘陵部と遮断され、また南東・南西側尾根の郭群に中世の遺構が色濃く残るなど、中世ー近世の城郭思想が混在した城郭となっています。本丸は高さ7−8mの高石垣で構築された不規則な方形郭で規模は30−40m四方ほど、虎口に小規模ながら桝形が採用され、また四隅に天守台を含む三基の櫓台が築かれ、周囲は幅の狭い帯郭で囲まれています。また本丸の南側斜面には本丸の石垣と違う工法で築かれた「野面積」が見られ、数回にわたり城の改修がなされたものと思われます。谷戸部分の平場には近世、二の丸が構えられ 御殿、藩施設等が置かれたようです。二の丸の虎口にあたる箕輪門は大規模な桝形構造の櫓門形式になっていて、前面は高さ10m以上の高石垣で構築されています。なお本丸・二の丸は近世城郭の色彩が強いようですが、中腹に設けられた中世二本松城時代の郭群は改修されることがなかったようで、中世の色彩の濃い形状になっています。

 南北朝期の貞和2(興国7)(1346)年、足利尊氏は畠山蔵人高国、左馬頭国氏父子と吉良左馬助貞家を奥州探題」に補任して奥州に下向させ、伊達、田村氏等の南朝勢力と対峙させます。しかし観応元(正平5)(1350)年、「観応の擾乱」が勃発すると足利直義方に加担した吉良貞家は尊氏方の畠山氏と対峙し、高国、国氏父子を自害に追い込みました。このため国氏の嫡子 平石丸(後の宮内大輔国詮)は会津に逃れて隠棲しましたが、吉良、斯波連合軍が陸奥国府(多賀城)を制圧すると、畠山家の再起を図るべく軍事行動を起こします。しかし国詮勢は吉良、斯波連合勢に敗北を喫して「安積郡」に逃れ、二本松を拠点とする一国人領主となりました。そして二本松城が築かれたのは国詮の嫡子 宮内大輔満泰の代の応永年間(1394−1418年)頃と推測されています。そして二本松畠山氏は国詮、満泰の代に領内の開墾を推し進めて所領を拡大し、応永20(1413)年 梁川城主 伊達兵部少輔持宗が大仏城に立て籠って「鎌倉府」に叛旗を翻した際、鎌倉公方 足利持氏の命により討伐軍に加わり、また永享10(1438)年に勃発した「永享の乱」「関東管領」 上杉憲実方に与して「鎌倉府」方の稲村公方 足利満直を攻撃し、この頃 二本松畠山氏は「安達郡」西部の有力国衆と認知されていたと思われます。しかし満泰のあとを継いだ嫡子の満盛が徳万丸(後の近江守政泰)を残して死去すると、満泰の弟 治部少輔持重が家督を継ぎましたが、後に成長した徳万丸と対立します。そして乱は持重方の勝利で終結しましたが、 敗れた政泰は高倉城に移り、以後 高倉畠山氏は二本松畠山氏と敵対関係を続けることとなります。戦国期に入ると二本松畠山氏は隣国の伊達、蘆名氏に圧迫され徐々に衰退していきます。天文11(1542)年、「天文伊達の乱」が勃発すると畠山信濃守義氏は伊達稙宗方に加担しましたが、家臣団が晴宗方に加担したため義氏は家臣団と対立し 畠山家中は混沌とします。また義氏の養子 修理大夫義国の代に「二本松畠山家、次第に衰微して、ようやく安達半郡、安積半郡を知行せられ ・・・・・」と疲弊し、会津蘆名氏の支配下に置かれました。義国の嫡子 右京亮義継の代に二本松畠山氏は小浜城主 大内備前守定綱と婚姻関係を結びましたが、天正12(1584)年 定綱が米沢城主 伊達政宗に叛き このため伊達勢の侵略を受けることとなります。そして定綱が二本松城に逃れたため、二本松城もまた伊達勢の攻撃目標となり、このため伊達に抗しきれない義継は政宗に降伏しました。しかし降伏の条件があまりに過酷だったため美継は政宗の父 輝宗に取成しを依頼するもののかなわず、美継は輝宗を拉致して二本松に戻る途中、伊達勢の一斉射撃を受けて殺害されました。その後、畠山氏は義継の遺児 国王丸を守り立て、佐竹、蘆名、石川、白川結城氏等の反伊達連合軍の支援を受けて伊達勢と対峙しましたが、天正13(1585)年 「人取橋の戦」で連合軍が伊達軍に敗北を喫すると、二本松城も落城を余儀なくされ、国王丸は会津蘆名へ逃れました。そして伊達の属城となった二本松城に政宗の腹心 片倉備中守景綱、伊達安房守成実が城代として据えられましたが、天正18(1590)年 「奥州仕置」により会津が蒲生氏郷領になると、二本松城に蒲生家の家老職 蒲生郷成が城主として据えられました。慶長3(1598)年、上杉景勝が会津に入封すると下条采女正忠親が二本松城代となり、同5(1600)年の「関ヶ原」後、会津に入封した蒲生秀行の家臣 梅原弥左衛門、門屋勘右衛門が二本松城代に据えられました。その後、寛永4(1627)年 加藤左馬助嘉明が伊予国松山から会津に入封しましたが、同20(1643)年 加藤家は改易となり、代わって二本松白河小峰城から丹羽左京大夫光重が入城し「明治維新」まで丹羽氏が存城しました。なお慶応4(1868)年の「戊辰戦争」の際、二本松藩が「奥羽越列藩同盟」に参加したため、二本松城は新政府軍の攻撃を受けて落城し、城内の建築物の大部分は焼失しました。
歴史・沿革
二本松城 本丸の石垣
メモ
中世 ー 「奥州探題」 二本松畠山氏の本城
近世 ー 二本松丹羽藩の藩庁
形態
近世平山城
別名
霞ヶ城・白旗城 
遺構
郭(平場)・天守台・櫓台・虎口・石垣・復元箕輪門・土塁・堀
場所
場所はココです
駐車場
霞ヶ城公園駐車場 OR 山頂北側にも駐車場あり
訪城日
平成19(2007)年11月4日
二本松城は二本松市街地北方の丘陵上に築かれた平山城です。(写真左上) この日 管理人は南側の公園駐車場からアプローチしたのですが (写真右上)、訪城日は毎年恒例の「二本松 菊人形展」が開催され、観光客が多かったため 管理人は北側に迂回しました。なお南側の登口に二重櫓で繋がれた桝形構造の箕輪門が復元され(写真左)、続きの城壁は高さ10m以上の高石垣になっています。(写真左下) 二本松城は中世・近世の城郭パーツが混在していますが、本丸北西側尾根を断ち切った堀切は中世遺構の最たるものでしょう。現在、3−4条の堀切が確認できます。(写真右下)
松森館(写真左上・右上) 本丸から南東側に延びた稜線の最上部を加工した郭で、この下にも数段にわたり階段状に郭が配置されているようです。基本的に尾根筋と谷戸内部を監視する郭のようで、中世の二の郭に想定されます。規模は40m四方ほど。
本丸(写真右) 高さ7−8mの高石垣で構築され、規模は30−40m四方ほど。(写真左下・右下) 虎口は南側に面した桝形構造になっていて、北東隅に天守台、南東隅に東櫓台、北西隅に西櫓台が築かれています。でっ、周囲に幅の狭い帯郭(犬走)が巻かれています。石垣は二の丸(箕輪門付近)の石垣と同様、丹羽氏時代の改修と推測されます。(現在の石垣はさらに復元されたもの)
(写真左上) 本丸の桝形虎口
(写真右上) 本丸の天守台
(写真左) 本丸の西櫓台
(写真左下) 本丸の南側斜面に見られる石垣は高さ10m以上の「野面積」の高石垣で、蒲生ー上杉時代の石垣と推測されます。
(写真右下) 搦手門、本丸の西側下に位置する裏門で、櫓門と想定されます。なお写真左側に古い時代の石積も確認できます。
二本松城 本丸の石垣
新城館(写真左上・右上) 本丸から南西側に延びた稜線尾根上の郭で、中世の色彩が色濃く残る郭です。内部は幅20−25mの痩尾根約80mを低い段差で三段に削平されています。
本宮館(写真右・左下) 新城館の南側下に位置する郭で、内部は幅10−15mの稜線を低い段差で三段に加工され、南縁に低いながら土塁も残存しています。(写真右下) 本丸は近世城郭に改修されていますが、二本松城自体の規模が大きかったため 中世二本松城の大部分は改修されず、そのまま使用されたのでしょう。
秋田の中世を歩く