小 浜 城
福島県二本松市(旧岩代町)小浜字下館
立地・構造
 小浜城は阿武隈川の支流 小浜川と移川によって形成された阿武隈丘陵の一小丘陵上(標高294m 比高60m)に築かれた平山城で、規模は東西700m×南北600mほど。城縄張りは頂部に構築された主郭を中心に北西ー南西ー東側に延びた稜線に展開され、各稜線は郭群に加工され 各郭間は堀で仕切られています。また北西ー南西側に馬蹄状に延びた稜線の谷戸が大手筋とされ、内部は数段の段郭群(「根小屋」か?)に加工され、西端部分に大手虎口が構えられていました。主郭の規模は東西100m×南北130mほど、内部から七棟の掘立柱建物祉が確認され、西側の二の郭、東側の東郭とともにまとまった平場になっています。小浜城は全体的に規模は大きく自然の要害地形を巧みに利用して構築

現地の推定復元図
されていますが基本的に日常居館を兼ねた館城として築かれたものと推測されます。また同地は田村、二本松、相馬からの往還道が交錯する交通の要衝に位置しており、これを扼する機能があったものと思われます。

 小浜城は文明年間(1469−87年)頃、四本松城主 石橋左近将監義衡に仕えた大内備前守宗政により築かれたと伝えられます。大内氏は貞治年間(1362−68年)、「陸奥守」 石橋式部大輔棟義が奥州多賀城に下向した際 これに同道した石橋譜代と伝えられ、「名取熊野新宮社」所蔵『一切経の奥書』永和五(1379)年五月二十七日の条「奥州石橋殿御執事大内伊勢守広光被登仙道」と記されており、この頃 大内氏は石橋氏の執事をつとめていたと推測されます。天文11(1542)年、「天文伊達の乱」が勃発すると乱は伊達家中のみならず、南奥羽の諸勢力を巻き込む大乱に発展し、乱中に大内備前守義綱は主家である石橋式部大夫久義を凌駕する勢力に成長しました。そして同19(1550)年、義綱は石橋久義を四本松城の二の丸に幽閉して石橋氏の実権を握ります。さらに義綱は永禄12(1569)年、三春城主 田村清顕の支援を受けて百目木城主 石川弾正、寺坂城主 寺坂信濃守と共謀して宮森城主 大河内備中守を殺害、主家の石橋久義を追放して塩松領を押領しました。その後、大内氏は田村氏の影響下に組み込まれましたが、義綱の嫡子 備前守定綱の代に田村氏からの独立を模索します。天正11(1583)年頃から定綱と田村氏は度々対立し、同12(1584)年 定綱は「千石森の戦」で田村勢に勝利をおさめています。同年、伊達政宗が伊達家の家督を継承すると、定綱は米沢城に参候して伊達家への忠節と妻子を人質にする由を申し出て小浜に戻りましたが、ふたたび米沢に参候することはなく伊達家の督促も拒否しました。このため政宗は同13(1585)年8月、田村勢とともに仙道に侵入して大内攻めに動きます。政宗は大内方の青木修理(苅松田城主)を内応させると小浜城の支城 小手森城に総攻撃をかけて攻略しました。(「伊達の撫斬り」) このため伊達の行為に恐怖をおぼえた定綱は二本松から会津へ遁走しました。そして塩松を制圧した政宗はさらに二本松畠山氏の攻略に動き、畠山氏を降伏させます。そして所領のほとんどを取り上げられた畠山右京大夫義継は政宗の父 輝宗を拉致して二本松城に引き上げようとしましたが、輝宗とともに伊達勢に射殺されました。輝宗の葬儀後、政宗は小浜城を拠点に二本松城攻略に動きましたが、反伊達連合軍が二本松救援に動いたため二本松城は落ちず、同年11月の「人取橋の戦」で伊達軍が反伊達連合軍を撃破したことで二本松城は孤立し、翌年 落城しました。この間、定綱は「安積郡」で伊達勢と対峙しましたが、同16(1588)年の「郡山合戦」が伊達優勢で終結すると政宗に降伏し、以後 伊達の一家臣として各地に転戦しています。同19(1591)年、「奥州仕置」により会津に蒲生氏郷が入封すると、小浜城に蒲生忠右衛門が城代として入城、その後の上杉時代に山浦景国、ふたたび蒲生時代に玉井貞右が城代となり、寛永4(1627)年頃 廃城。
歴史・沿革
小浜城 主郭の残存石垣
メモ
「安達郡」の有力国衆 大内氏の館城
形態
平山城
別名
 下館
遺構
郭(平場)・石垣・虎口・堀
場所
場所はココです
駐車場
二本松市役所岩代支所の駐車場借用 OR 主郭脇に駐車スペースあり
訪城日
平成19(2007)年11月3日
小浜城は小浜市街地背後の丘陵上に築かれた平山城で、西側に谷戸を開いた馬蹄状の稜線を城域とし、谷戸部分に大手口が設けられていたようです。(写真左上ー大手口) でっ、城山へはここから車道が敷設され、谷戸内部は数段にわたる段郭群(「根小屋」か?)に加工されています。(写真右上・左)
東郭(写真左下) 主郭の東側に位置する平場で、東端は櫓台状に高くなっています。でっ、この郭を起点に南西方向に延びた稜線は段郭群に加工され、主郭間は幅10m×深さ5−6mほどの堀で切られています。(写真右下)
主郭(写真左上) 規模は東西100m×南北130mほど、虎口は南東側に設けられ、導線を兼ねた帯郭から坂虎口で繋がっていたと思われます。(写真右上) でっ、虎口に隣接した切岸部分に石垣が残存していますが、この石垣は蒲生氏時代のものと推測されています。(写真右) 現在、主郭内部は公園として整備されていますが、昭和56(1981)年の発掘調査で主殿(四間×八間)を含む七棟の掘立柱建物祉が確認されています。主郭の東側に東郭が、西側に堀を挟んで(写真左下) 二の郭が配置されていました。(写真右下)
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