小 手 森 城
福島県二本松市(旧東和町)針道愛宕森
立地・構造
 小手森城は阿武隈丘陵の中山間地、針道川右岸の独立丘陵 愛宕森(標高464m 比高100m)に築かれた小規模な山城です。城の規模は東西150m×南北150mほど、城縄張りは頂部に構築された主郭と北東側尾根に敷設された腰郭、周囲の中腹に築かれた帯郭群(犬走り?)からなりますが、まとまった平場は頂部周辺に見られるのみで、兵の駐屯能力はそれほど高くはないようです。城の防御手段は自然地形の急斜面と中腹に配置された帯郭群のみですが、もしかしたら山麓部分に外郭ラインが構えられた可能性もあるようです。基本的には西麓を通る川俣ー田村に繋がる往還道を抑える城砦として築かれたものと推測されます。

 築城時期・築城主体ともに不明。一説には南北朝期、塩松に入部した「陸奥守」 石橋
氏が四本松城の支城として築いたとも。そして永禄12(1569)年、塩松石橋氏が没落すると小浜城主 大内氏の属城になったと伝えられます。天正12(1584)年、伊達政宗が伊達家の家督を継承すると、大内備前守定綱は米沢に参候して伊達家への忠節と妻子を人質にする由を申し出て小浜に戻ります。しかし定綱が再度 米沢に参候することはなく、伊達家の参候の督促も拒否しました。このため政宗は同13(1585)年8月、三春城主 田村清顕とともに仙道に侵入して大内攻めに入ります。そして政宗は小浜城の支城 小手森城を攻撃目標として反伊達連合軍(会津蘆名、須賀川二階堂、二本松畠山)と対峙し、菊地顕綱の守備する小手森城に総攻撃をかけ「伊達の撫斬り」と呼ばれる大殺戮を決行して小手森城を攻略しました。この「撫斬り」に関しては諸説あり、政宗から山形城主 最上義光に宛てた書状には総数1000人、また会津口 檜原城を守備する後藤信康宛ての書状には200人、さらに資福寺の虎哉宗乙宛ての書状には800人と記され、城内の将兵の他 女子供まで殺戮されたと伝えられます。このため大殺戮に恐怖を覚えた定綱は小浜城を捨てて会津に逃れ、戦後 小手森城は伊達軍に加勢した百目木城主 石川弾正光昌に与えられました。しかし同16(1588)年、光昌は小高城主 相馬長門守義胤に内応して伊達に謀反を企てます。このため小手森城は伊達勢の攻撃を受け、百目木城とともに陥落し 光昌は自害しました。その後の小手森城の消息は不明、この際 廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
小手森城 遠景
メモ
小浜城の支城
形態
山城
別名
 ・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・竪堀?
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成19(2007)年11月3日
小手森城は阿武隈丘陵の中山間地、通称 愛宕森と呼ばれる独立丘陵上に築かれた山城です。(写真左上) でっ、城へは南麓の愛宕神社鳥居から参道が設けられ(写真右上ー誘導杭あり)、ここから比高差80mの急斜面を登ります。でっ、参道は急斜面のうえ、思ったより長く ハッキリ言って足にきます。写真左は参道を上から見たところですが、参道は竪堀祉を利用したものと思われ、途中の斜面には帯郭(犬走り?)のような平場が見られ(写真左下)、じきに主郭に祀られる愛宕神社に辿り着きます。(写真右下)
頂部の主郭には愛宕神社が祀られています。社殿が置かれている部分は一段高くなっていますが、方10−15m四方ほどの狭小で、物見を置くのにはちょうどいいスペースのようです。(写真左上) でっ、主郭の北東側尾根には腰郭が2段にわたり削平されていますが、主郭と合わせてもそれほど広い空間ではないようです。(写真右上) なお周囲側面には帯郭が想定されますが、藪でよくわかりません。
秋田の中世を歩く