四 本 松 城
福島県二本松市(旧岩代町)上長折字古館
立地・構造
 四本松城は阿武隈丘陵の中山間地、口太川と安達太田川が合流する西岸、西から東方向に張り出した丘陵突端(比高80m)に築かれた山城です。城の規模は東西280m×南北300mほど、城縄張りは頂部に構築された主郭を中心に北ー南東ー南西側に延びた稜線尾根を郭に加工して城域としています。城の北ー西側は急峻な断崖で守備され、南ー東ー北側を流れる口太川を自然の濠に見立て、各稜線尾根は堀で遮断して防御ラインとしています。主郭の北側尾根は急斜面のため小郭と堀切で普請されていますが、丘陵続きになっている南西側尾根は二の郭・三の郭を階段状に築き、先端の鞍部を堀切で処理しています。また比較的 緩斜面の東側尾根に四の郭・寺屋敷が敷設され、先端は堀で遮断されています。大手筋はこの東側尾根と想定されます。

 文治5(1189)年の「奥州藤原討伐」により、それまでこの地を支配していた伴氏が滅亡すると、塩松に田原次郎秀行が地頭として入部し、その子の成清が築城したのが四本松城の初源と伝えられます。しかし南北朝期の延元3(1338)年、田原長秀は斯波貞持との(いくさ)で討死し田原氏は滅亡しました。そして暦応3(1340)年、石塔少輔四郎義房が、貞和2(1346)年 幕府評定衆の吉良左馬助貞家が「奥州探題」として四本松城に入城し、「南北朝合一」後の明徳3(1392)年、「鎌倉府」支配下の宇都宮氏広が「奥州探題」として塩松に入部しました。しかし応永7(1400)年、氏広は陸奥国府(多賀城)を基盤とした「陸奥守」石橋式部大輔棟義と「奥州探題」(な〜〜んと奥州探題の多いことか?!!) 斯波(大崎)左衛門佐詮持に滅ぼされ、棟義が四本松城を拠点として塩松地方(安達郡東部)を支配することになります。永享9(1437)年に勃発した「永享の乱」から長く続く関東の争乱で、石橋氏は「京都扶持衆」として「関東管領」 上杉氏に加担して南奥の国人衆のまとめ役を担ったとされますが、その後 15世紀末期 白川結城氏、会津蘆名氏、伊達氏の軍事行動が頻発すると、徐々に勢力を衰退させ 塩松の一領主になりました。天文11(1542)年に勃発した「天文伊達の乱」で石橋尚義は二本松城主 畠山信濃守義氏、三春城主 田村隆顕等とともに伊達稙宗派に加担しましたが、後に伊達晴宗が優勢になると晴宗方に転じます。この間、石橋家中では重臣の小浜城主 大内備前守義綱の発言力が強まり、同19(1550)年 義綱は石橋久義を四本松城の二の丸に幽閉して石橋家の実権を掌握しました。さらに義綱は永禄12(1569)年、三春城主 田村清顕の支援を受けて百目木城主 石川弾正、寺坂城主 寺坂信濃守と共謀して宮森城主 大河内備中守を殺害、主家である石橋久義を追放して塩松領を押領しました。そして義綱の嫡子 備前守定綱の代に四本松城から宮森城へ拠点を移し、この際 四本松城は支配拠点としての機能を失い以後 衰退したものと思われます。(塩松石橋氏の拠点 塩松城の推定地は四本松城のほか住吉山城説もあるようで明瞭ではありません)
歴史・沿革
四本松城 主郭
メモ
旧「陸奥守」家 塩松石橋氏の館城か?
形態
山城
別名
塩松城? 
遺構
郭(平場)・堀
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成19(2007)年11月3日
四本松城は阿武隈丘陵の中山間地、四本松地区背後の丘陵上に築かれた山城です。(写真左上) でっ、城へは西側の林道(堀切か?)脇に案内杭が設置され、散策路が設けられています。(写真右上) 最初に現れるのが三の郭と思われる平場で、ここから主郭まで階段状に郭が敷設されています。(写真左) 二の郭は天文19(1550)年、大内義綱が石橋久義を幽閉した塩松城の二の丸に想定されますが、規模は小さいものです。(写真左下) 主郭・二の郭間の切岸は高さ5−6mほど(写真右下)、二の郭から主郭へは主郭の南⇒東側に迂回する導線ルートになっています。
主郭(写真左上・右上) 規模は長辺150mある大規模な平場で、北ー西ー南側に低い段差で幅10−15mの帯郭が巻かれています。(写真右) 現在、下草が刈られ整備されていますが、往時は中心になる主殿殿舎が建てられていたのでしょう。
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