願 成 就 院
静岡県伊豆の国市(旧韮山町)寺家
 正式名称は「天守君山 願成就院」、宗派は真言宗、御本尊は木像阿弥陀如来坐像。『吾妻鏡』によると願成就院は文治5(1189)年の源頼朝による「奥州藤原討伐」の際、頼朝の舅 北条時政が戦勝祈願のため創建したとされます。しかし伽藍に残る仏像は文治2(1186)年から造り始められており、願成就院はもともと北条氏の氏寺として創建されたと推測されます。その後、『吾妻鏡』には嘉禎2(1236)年まで願成就院伽藍造営に関する記載が見られることから、願成就院は時政以降 嫡子の義時、嫡孫の泰時の代まで伽藍工事が続けられ、伊豆最大の巨大伽藍に整備されたものと思われます。そして願成就院は北条氏の庇護を受けて繁栄しましたが、延徳3(1491)年 堀越御所内で内乱が勃発し、明応2(1493)年 内乱に乗じて興国寺城主 北条早雲が堀越御所を攻撃した際 願成就院は焼失しました。その後、願成就院は規模を縮小して再興されましたが、天正18(1590)年の小田原の役」の際、ふたたび戦火により焼失しています。その後、願成就院は江戸中期の宝暦3(1753)年 河内狭山藩主 北条美濃守氏貞により再建されました。昭和48(1973)年、国の史跡に指定。(場所はココです)
参道 
山門 
大御堂 
運慶作の木造阿弥陀如来坐像や木造不動明王及び二童子立像、木造毘沙門天立像が安置され一般公開されています。(訪問日は休館日でした) なお不動明王像と毘沙門天像の胎内に納められていた塔婆形銘札(とばがためいさつ)「文治二年五月、巧師勾当運慶、檀越平時政、執筆南無観音」の記銘があるようです。
本堂 
棟札から寛政元(1789)年の建立とされます。
願成就院祉 
願成就院の境内は広範囲にわたっていたようで、発掘調査から大御堂や南新御堂、南塔が確認されています。また全盛期には守山を借景した巨大な池を有した浄土様式の壮大な伽藍だったようです。
北条時政の墓所 
願成就院の創建者 北条時政は桓武平氏 平直方流を称した伊豆の在庁官人です。時政は治承4(1180)年、娘婿の源頼朝が平家打倒の兵を挙げると、これに参加し、のちに鎌倉幕府の初代執権に就任しています。
北条時政の墓所 
しかし元久2(1205)年、時政は将軍 実朝を廃して娘婿の平賀武蔵守朝雅を新将軍に擁立しようと画策します。このため時政は北条政子、義時と対立し、鎌倉から追放され伊豆国北条に隠居しました。死没は建保三(1215)年一月六日、享年 七十八。
<時政の戒名>
「願成就院明盛」
足利茶々丸の
墓所
足利茶々丸は初代堀越公方 足利政知の嫡子です。しかし茶々丸が素行不良だったため、政知により廃嫡され軟禁されたと伝えられます。延徳3(1491)年、政知が死去すると茶々丸は脱獄して継母と異母弟 潤童子を殺害して公方となりましたが、このため伊豆国内は混乱をきたしました。
足利茶々丸の
墓所
そしてこの混乱に乗じて北条早雲は明応2(1493)年、伊豆に侵攻し堀越公方家を滅ぼして茶々丸を追放しました。茶々丸の死没は明応七(1498)年八月と伝えられます。
<茶々丸の戒名>
「成就院福山広徳」