蛭 ヶ 小 島
静岡県伊豆の国市(旧韮山町)韮山四日町
 平治元(1160)年の「平治の乱」で敗北を喫した源氏の棟梁 左馬頭義朝は東国へ逃れる途中の尾張国知多で家人の長田忠致に謀殺されます。また義朝の三男 右兵衛権佐頼朝は近江国で捕縛され六波羅に送られましたが、平清盛の継母 池の禅尼の歎願等により死一等を減ぜられ伊豆国 蛭ヶ小島に流罪となります。そして頼朝は伊豆の在庁官人 北条時政、伊東祐親の監視を受けながら20年間 この地で流人生活を送りました。またこの間、頼朝は乳母である比企尼から経済的支援を受けたと伝えられます。その後の治承4(1180)年、以仁王の平家追討の令旨を得た頼朝は平家打倒の兵をあげ、8月17
日 伊豆の目代 山木()兼隆の山木館を急襲して兼隆を討ち取りました。蛭ヶ小島は田方平野の中央東部、狩野川右岸の微高地に位置しますが、往時 狩野川は現在の流路の東側を流れていたとされ、蛭ヶ小島は狩野川の中州、あるいは氾濫原の微高地(島状地形)にあったものと推測されています。なお『吾妻鏡』には頼朝の流刑地として「蛭島」とのみ記されているようで、あくまで推定地です。現在、蛭ヶ小島の推定地は「蛭ヶ島公園」として公園整備されています。(場所はココです)
史跡碑文 
内部 
源頼朝、政子像