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堀越御所は田方平野の中央部、狩野川右岸の平野部に築かれた平城らしいです。現在、館祉の一部が更地(公園)になっていますが、往時の規模・構造ともに不明。なお発掘調査から庭園の池祉や石塁、井戸祉が確認され(現在は埋め戻されています)、志那産の陶磁器や鉄釘、貨幣が出土しています。また同地は平安末期の北条氏館祉と伝えられます。
長禄元(1457)年、将軍 義政はかねてから対立関係にあった「鎌倉公方」 足利成氏を牽制するため庶兄の左馬頭政知を還俗させ、「新鎌倉公方」として関東に派遣します。しかし「享徳の乱」による関東の混乱、幕府権力の低下により政知は箱根を越えられず、このため政知は伊豆 国清寺を仮御所としました。そして長禄4(1460)年、国清寺が成氏方に焼き討ちにされると、政知は北条氏の館祉に新たに堀越御所を築き、「鎌倉公方」勢と対峙しました。その後、政知は「関東執事」 渋川右兵衛佐義鏡、上杉伊予守教朝とともに鎌倉入りを目論み、寛正元 |

現地説明板の図 |
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(1461)年 義鏡の嫡子 治部大輔義廉が斯波家の家督を継ぐと政知は斯波家の軍事力を掌握しました。しかし寛正2(1462)年、「堀越府」は兵糧料所の設置をめぐって相模国守護職 上杉弾正少弼持朝と対立し、この責を負って義鏡は失脚しました。その後、「関東執事」を継いだ上杉教朝の嫡子 治部少輔政憲は「関東管領」 上杉兵部少輔房顕と結んで武蔵国五十子で「古河公方」と対峙します。そして文明8(1476)年、「関東管領」 山内上杉家中の内紛から「長尾景長の乱」が勃発し、景長方に「古河公方」が加担しましたが、同年 駿河国守護職 今川上総介義忠が討死にし内訌が勃発したため政知は政憲を駿府に派遣して調停に当たらせました。このため翌年、「五十子の戦」は「古河公方」方の勝利で終結し、これを契機に「古河公方」の勢力が拡大されました。その後、政憲は両上杉と「古河公方」との和睦に動き、文明14(1482)年 和睦を成立させています。しかしこのため「堀越府」の支配権は伊豆一国に限定されることとなり、政知は政憲を疎んじ政憲に切腹を命じています。長享元(1487)年、政知は嫡子の茶々丸を廃嫡して軟禁すると、三子の潤童子を世子に指名します。しかし延徳3(1491)年、政知が死去すると茶々丸は脱獄して継母の円満院と潤童子を殺害し「堀越公方」を称しました。そして茶々丸が強権政治を行ったため伊豆衆の支持を失い、混乱は伊豆国内に及びました。明応2(1493)年、興国寺城主 伊勢宗瑞は伊豆の混乱に乗じて伊豆に侵攻すると,、堀越御所を陥落させて伊豆制圧に成功しました。 |