吉 川 阿 弥 陀 堂
山形県西村山郡西川町間沢吉川
 嘉永元(1225)年、「鎌倉幕府」の創設に関わった大江広元が死去すると当時、「承久の乱」に敗れ「寒河江荘」に蟄居していた広元の嫡子 「前京都守護」 民部少輔親広は鎌倉にいる嫡子の左近将監佐房(すけふさ)に命じて阿弥陀如来像を造り その胎内に広元の遺骨を納め、外祖父 多田仁綱(のりつな)の祖 源満仲の念持仏とともに吉川館の邸内に建立した阿弥陀堂に安置したとされます。多田仁綱は清和源氏 源経基を祖とする摂津源氏の出身で親広の外祖父にあたります。そして仁綱は大江広元の目代として「寒河江荘」に入部し、当初 仁綱は本楯に拠していましたが、のちに吉川に居を移し「承久の乱」に敗れた親広を吉川館に匿ったとされます。そして天福2(1234)年、仁綱が死去すると仁綱の遺骸は阿弥陀堂脇に葬られ、仁治2(1241)年 阿弥陀堂吉川館の鬼門とされる館の北東縁に移築され、同年 親広が死去すると親広もまた阿弥陀堂の傍らに葬られたと伝えられます。親広死去後、吉川大江氏は親広の次子高元ー親広の三子 木工助広時ー広時の嫡子 政広と続き、政広の嫡子 右京亮元顕が鎌倉末期に「寒河江荘」に下向して吉川に土着したとされます。そして元顕以降、大江氏は元顕の嫡子 因幡守元政ー元政の嫡子 上総介時茂と続き、南北朝期 大江氏は南朝方に加担していました。しかし応安元(正平23)(1368)年、時茂のあとを継いだ嫡子の大江(溝延)式部丞茂信の代に大江氏は北朝方の「羽州探題」 斯波修理大夫兼頼、「奥州管領」 大崎治部大輔直持連合軍との(いくさ)で壊滅的な大敗を喫して、茂信以下 一族六十余名が自害する危機的状況になりました。(「漆川の戦」) このため時茂は生き残った四子の大蔵少輔時氏に幕府に和を乞い降伏することを厳命して死去しました。そして時氏は嫡子の元時を「鎌倉府」に人質として送り、本領安堵の御教書を受け、自身は寒河江に拠を移して寒河江氏を称しました。この際、吉川には兄 茂信の嫡子 家広が残され、以後 家広の家系は吉川氏(寒河江大江氏の宗家)を称し阿弥陀堂(安中坊)(大江氏宗廟)の別当をつとめています。家広以降、吉川大江氏の当主は備前守を称して 家広ー元家ー教広ー頼元ー頼俊ー政周ー広政ー政時ー元綱と続き、この間 兵部少輔政周は左沢政勝の三男で吉川大江氏に養嗣子として入り、その次の備前守広政は白岩満広の三男で政周の娘婿として吉川大江家の家督を継いでいます。天正6(1578)年、寒河江兼広が嗣子なく死去すると吉川民部少輔元綱の嫡子 少輔太郎高基が兼広の娘婿として寒河江氏の家督を継ぎます。そして高基の次弟 少輔助二郎隆広が吉川大江氏の家督を継ぎ、三弟の柴橋頼綱(橋間勘十郎)が寒河江氏の執政をつとめました。天正12(1584)年、山形城主 最上義光は谷地城主 白鳥十郎長久を山形城に招いて謀殺すると すぐさま谷地城を攻撃します。このため寒河江高基は白鳥家家臣団を支援しましたが、谷地城は陥落し最上勢は寒河江領に侵攻しました。そして橋間勘十郎が寒河江勢の指揮をとり最上勢と対峙しましたが、勘十郎は討死にし 高基は隆広とともに貫見に遁れて御楯山で自害しました。寒河江氏滅亡後、阿弥陀堂の衰退を危惧した吉川大江氏の旧臣は最上義光に阿弥陀堂の再建を直訴します。そして義光はこれを了承して阿弥陀堂を再建し百十八石の御朱印を発給しました。そして吉川隆広の遺児 良光(安中坊寿斎)を吉川に戻して別当としました。慶長5(1600)年、良光は義光の嫡子 修理大夫義康の家臣団に組み込まれ、「慶長出羽合戦」に僧体で出陣したと伝えられます。しかし同7(1602)年頃から義光と義康の関係が悪化し、翌8(1603)年 義康は高野山での蟄居を命ぜられます。そして良光は嫡子の広道とともに義康に同道しましたが、義康は荘内で暗殺され、良光、広道も討死にしました。良光、広道死去後、阿弥陀堂の別当は良光の次子 広長(朝光)-良光の三子 吉長(宥鏡)が継ぎ、吉長の代の寛永元(1624)年 阿弥陀堂は天海僧正の命により「金仲山 無量寿院」と称する真言宗寺院に改修され、幕末まで存続しています。しかし明治初年の廃仏毀釈により無量寿院は解体され、山門は溝延の聞徳寺へ、本堂は吉川学校に転用され、現在 山形市の常念寺 客殿になっているようです。(場所はココです)
阿弥陀堂祉 
阿弥陀堂祉 
吉川阿弥陀堂 墓所
安中坊墓所 
「安中坊」の墓所には寒河江大江氏 歴代当主が葬られているようですが、現在 わかっているのは大江親広の五輪塔だけのようです。(自分がわからないだけ?) 内部には明治以降に建立されたと思われる現在の大江氏(吉川大江氏?)の墓石もあります。
安中坊墓所 
ちなみに「安中坊」に葬られたとされる寒河江大江氏の当主は親広以降、高元ー木工助広時ー少輔助太郎政広ー右京亮元顕ー因幡守元政ー上総介時茂ー式部少輔茂信ー大蔵少輔時氏の九代。
安中坊墓所 
そして時氏が寒河江に拠を移した後は式部少輔茂信の嫡子 備前守家広が吉川大江氏を創設して吉川に拠し、以降 吉川大江氏代々の当主 備前守元家ー備前守教広ー弾正少弼頼元ー頼俊ー兵部少輔政周ー備前守広政ー兵部少輔政時ー民部少輔元綱が「安中坊」に葬られたものと思われます。
安中坊墓所 
現在、誰のものかわかってる墓石は民部少輔親広の五輪塔と親広の外祖父 多田仁綱の五輪塔のみ。
大江親広の五輪塔 多田仁綱の五輪塔
安中坊墓所 
内部にはケッコウな数の墓石が散在していますが、五輪塔・宝篋印塔などの墓石は少ないような ・・・・・。
吉川館 
阿弥陀堂の南側には吉川大江氏の居館が構えられ、背後の丘陵上には要害が設けられていたようです。ちなみに阿弥陀堂吉川館の鬼門 北東隅に設けられていたようです。また吉川館は時氏が寒河江に拠を移すまで寒河江大江氏嫡流の本拠だったのでしょう。