古 堀 田 城
秋田県仙北市(旧西木村)西木町上荒井字古堀田
立地・構造
 古堀田城は仙北平野の北東部、檜木内川左岸の半独立丘陵上(比高70m)に築かれた山城です。城の規模は東西250m×南北450mほど、城縄張りは南北稜線を二重堀で画した南北2郭の複郭連郭構造で構築されています。規模は北郭が東西50−60m×南北90m、南郭が東西40m×南北90mほど。北郭は単郭、南郭は南北3段の段郭構造になっています。両郭を分断した堀は幅15m×深さ3−6mほどの二重堀で、堀底は西ー東側に傾斜し東側に導線が設けられていたと思われます。特筆すべきは南郭の周囲をカバーした高低差の大きい横堀と東側斜面に敷設された26条の連続畝堀群で、これは秋田県内でも類例のない特殊な遺構。大手筋は西麓から南郭
古堀田城 概念図
北西虎口に繋がるルートが、搦手は南郭南端から横堀を経て南端の畝堀に繋がるルートと想定されます。全体的に日常居館を構えるに充分な規模の平場を包括しており、恒常 的な居住空間を含む館城として築いたものを、のちに横堀・畝堀で防御力を付加し要害性を高めたものと思われます。

 築城時期・築城主体ともに不明。伝承によると鎌倉初期、鳥谷崎城から門屋に進出した戸沢兼盛の隠居城とも。またもともとアイヌの「チャシ」だったとも。南北朝期の康安年間(1361−62年)、戸沢伊盛の死去により横田城に拠していた弟の治部少輔行盛が門屋城に入城し、また行盛の子 上総介泰盛も横田城に生まれ、明徳2(1394)年 戸沢豊盛の死去により門屋城に移ったと伝えられており(『戸沢家譜』)、戸沢氏が門屋城を拠点とした頃 有力な庶子家が拠した支城だったと思われます。応永30(1423)年、戸沢飛騨守家盛が北浦角館城に拠点を移した後、戸沢領阿仁口を警備する支城として機能し、戸沢氏の一族または重臣が居住したと推測され、現在 見られる横堀、畝堀等の城郭パーツは戦国末期に改修されたものと思われます。天正18(1590)年、「戸沢三十五ヶ城破却令」により廃城。
歴史・沿革
古堀田城 北郭・南郭間の堀切
メモ
戸沢氏の支城
形態
山城
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・堀・連続畝堀
別名
小保田城・横田城?
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
(登口に1台分のスペースあり)
訪城日
平成16(2004)年11月8日 平成28(2007)年4月12日 平成28(2016)年5月6日
古堀田城は檜木内川の東岸、西明寺古堀田地区東方の丘陵上に築かれた山城です。(写真左上ー西側からの遠景) でっ、北郭が「古堀田農村公園」として整備され、西麓から散策路が設けられています。(写真右上ー登口) 散策路が往時の大手筋かは断定できませんが、山麓部分にいくつか削平地らしき平場が見られます。(写真左) その後、散策路は北郭の北西方向に進むように敷設されていますが、これは後世の改変と思われます。(写真左下) がっ、 ・・・・・ 北西斜面には竪堀らしきものも見られます。(写真右下)
北郭(写真左上) 規模は東西50−60m×南北90mほど、北縁に幅2m前後の犬走が見られ(写真右上ーこれも公園整備によるものか?)、中央西寄りに下幅5−6m×高さ2−2.5m×長さ15mの土塁が残存(?)しています。(写真右) でっ、北郭の南側下に20m四方の腰郭が敷設されていますが、これがたぶん虎口郭だったのでしょう。(写真左下) ちなみに北郭の東側に堀切が見られますが(写真右下)、堀底は北郭の北ー東側をカバーする帯郭になっていて、北側下に現在 送電塔が建てられています。
北郭・南郭を分断した二重堀は幅15m×深さ3−6mほど、自然の鞍部を利用したものなのでしょう。でっ、堀底は西から東方向に傾斜しているため、中土塁()は西側が低く0.5mほど、東側が1−1.5mと高く設定されています。(写真左上・右上)
南郭(写真左ー北下段) 南北90mの丘陵上を3段の段郭群に加工し、このうち北下段は30m四方ほど、東側が低くなっています。でっ、北縁に天幅2m×高さ1.5m×長さ10mの土塁が築かれ(写真左下)、土塁の東西に虎口が設けられています。(写真右下ー東虎口・二重堀に繋がる折虎口)
(写真左上) 北下段の西虎口
南郭の中上段は40m四方ほど、内部は削平されているようですが、ケッコウ藪っていて、中央になにやら石祠(毘沙門か?)が祀られています。(写真右上) 北下段とは高さ3mの段差で仕切られ(写真右)、北東端に北下段に繋がる虎口が設けられています。(写真左下) また南東端に虎口を区画したと思われるト状の土塁が築かれています。(写真右下) 土塁の規模は下幅3−4m×高さ1.5mほど。
南郭の南下段は15m四方ほど、中上段と2mの段差で画され、東側に導線が設けられています。(写真左上ーこの郭の中央にも石祠が祀られています) でっ、南側下に虎口郭と思われる小郭が設けられ(写真右上ー6−7m四方)、先端部は鋭角的なV字堀で画されています。(写真左) 堀の規模は幅10m×深さ6−7mほど、堀底は南郭の西側をカバーする長大な横堀に変化します。(写真左下・右下) 南郭側の切岸は最大10mほど、西横堀の北縁に往時の導線と思われる道形が見られます。
(写真左上) 南郭北下段に繋がる導線(道形)
南郭の東側下にも最大10m切り落とした横堀が迂回し(写真右上)、横堀の外側(東側)斜面は26条の連続畝堀で切り刻まれています。(写真右・左下・右下ー横堀と畝堀には1.5−2mの高低差があります) 戸沢氏の城館でこれだけ大規模な畝堀が見られるのはここだけでしょう。当然、戦国末期の遺構と思われることから、戦国末期 戸沢氏は門屋城ではなく古堀田城を戦略上の重要拠点にしていたと思われます。
(写真左) 南郭北東下のV字堀ー東横堀に連続
 
ー 動画 古堀田城を歩く ー
秋田の中世を歩く