戸 沢 城
秋田県仙北市(旧西木村)西木町上檜木内字西下戸沢
立地・構造
 戸沢城は檜木内川上流部の右岸、北西方向に張り出した丘陵突端(比高40m)に築かれた丘城です。規模は東西80m×南北120mほど、南東側の丘陵続きを防塁で仕切って城域を区画し、内部は南北の複郭構造になっています。規模は主郭に想定される北側の郭が東西25m×南北30m、南郭が東西10m×南北20mほど、どちらの郭も虎口受けと思われる小郭を経て郭に繋がっています。東側に構築さ
戸沢城概念図
れた東防塁は天幅3−4m×最大高6−7mほど、全長70mにわたって稜線を断ち切っています。戸沢城は全体的に規模は小さく、恒常的な居住空間になっていませんが、同地は檜木内川の上流部に位置し、阿仁から仙北に繋がる大覚野街道を扼する高所に立地しており、仙北勢力の「境目の城」として機能していたと思われます。

 築城時期・築城主体・城主ともに不明。伝承によると鎌倉初期、戸沢氏の祖 兼盛が檜木内川上流域に入部した際、拠した居館とも。戸沢氏は桓武平氏貞盛流とされ、平安末期頃 兼盛の父 飛騨守衝盛の代に「雫石荘」 戸沢の所領を安堵された土着(開発)領主でしたが、兼盛の代に奥羽山脈を越えて鳳仙台に拠を移し、さらに檜木内川上流部の戸沢に進出したと伝えられます。その後、兼盛は檜木内川を南下して建保6(1218)年 鳥谷崎城へ移り、承久2(1220)年 門屋へ進出して小館に拠し、さらに安貞2(1228)年頃 門屋城を築いたとされます。南北朝ー室町期以降、戸沢城は戸沢領北端の「境目の城」として大覚野街道の監視機能、戸沢氏の経済基盤であった鉱山(杉の沢鉱山、戸沢鉱山)経営の重要拠点として機能したと推測されています。
歴史・沿革
戸沢城 主郭東側の堀
メモ
戸沢氏の「境目の城」
形態
丘城
別名
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遺構
郭(平場)・虎口・土塁・堀
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車(入口の近くに空地あり)
訪城日
平成19(2007)年4月12日 平成28(2016)年5月3日
戸沢城は檜木内川の上流域、戸沢地区西方の丘陵突端に築かれた丘城です。(写真左上ー北東側からの遠景) 城へはR105号から林道へ入り、しばらく進むと説明板が設置され、ここからアプローチできます。(写真右上) でっ、しばらく進むと散策路は左折して沢状の堀底道になりますが、このルートが大手導線と推測され(写真左)、散策路は主郭の東側下を通り、じきに木戸口と思われる切り込みにたどり着きます。(写真左下) 木戸口の内部は東防塁と南郭に挟まれた狭い空間になっていて、ここから主郭・南郭へ導線が設けられています。(写真右下ー主郭への導線)
(写真左上) 主郭・南郭間の堀切
主郭(写真右上・右) 規模は東西25m×南北30mほど、一応 内部は削平され小屋掛できる空間ではありますが、恒常的な居住空間ではないような ・・・・・。でっ、虎口は南端に設けられ(写真左下)、北東縁に風除け?と思われる高さ4−5mの分厚い土塁(櫓台?)が築かれています。(写真右下) なお主郭から大覚野街道が よく 見えます。
(写真左上) 主郭から大覚野街道方向を望む、大覚野街道は阿仁と仙北を結ぶ主要街道で、現在の国道105号は県北と県南を最短距離で結んでいます。
南郭(写真右上ー主郭から南郭方向) 規模は東西10m×南北20mほど、内部は2mの段差で区画された南北の2郭構造になっています。(写真左ー上段 写真左下ー段差)
(写真右下) 南郭東側の堀 、北西方向に延びた丘陵を断ち切ったもので、もともと自然地形の沢を利用したものなのでしょう。
東防塁(写真左上ー防塁上) 城域を区画したもので天幅3−4m×最大高6−7mほど、長さ70mにわたって構築され、南端は若干 高く設定されていて櫓台だったのかも。(写真右上) なお東側の丘陵続きに堀は見られませんが、部分的に堀状に深くなっている箇所が見られます。(写真右) ま〜〜〜、鎌倉期の城というのはこんな感じだったのでしょうか。
ー 動画 戸沢城を歩く ー
秋田の中世を歩く