浜 館
秋田県由利本荘市(旧西目町)西目町出戸字館
立地・構造
 浜館は西目平野の中央西端、日本海に面した独立丘陵(標高116m 比高100m)に築かれた山城です。城の規模は推定 東西250m×南北270mほど、内部は大きくは稜線鞍部で仕切られた東・西2つの郭群からなるようです。
浜館 概念図
このうち現在、城郭遺構の残る東側の郭群は東西180m×南北150mほど、内部は東西に細長い郭を中心に西側に1段、東側に3段 腰郭を敷設しただけのシンプルな段郭構造になっています。主郭の規模は東西60m×南北10−15mほど。また南北に細長い西側の郭群は加工された形跡は見られませんが、ピーク部分から南・北両方向の眺望に優れており、監視機能を補完した物見・出丸として利用されたと思われます。

 築城時期・築城主体ともに不明。一説に正応ー永仁年間(1288−98年)頃、由利仲八郎政春により築かれたと伝えられます。由利氏はもともと奥州藤原氏の支配下にあった在地領主でしたが、文治5(1185)年に起こった源頼朝の「奥州討伐」の際、由利維平は藤原方に加担し敗れましたが、後に赦されて鎌倉御家人になっています。しかし建暦3(1213)年に勃発した「和田義盛の乱」の際 維平のあとをついだ維久は三浦方に加担したため戦後 改易となり、由利氏の所領は加賀美遠光の娘(大弐局)に与えられました。その後、由利氏は細々と存続していたと思われ、鎌倉末期 由利政春が由利郡の旗頭としてあらわれ、この頃 浜館を拠点として築いたとされます。応長元(1311)年、政春はかねてから対立関係にあった鳥海氏の栗山館を攻撃しましたが、このため鳥海氏との抗争は激化し、正和年間(1312−17年)頃 浜館は鳥海勢の攻撃を受けて陥落し、政春は新たな拠点として鳴瀬館を築き移り住んだと伝えられます。
歴史・沿革
浜館 主郭に建つ城址碑
メモ
由利氏の館城か?
形態
山城
別名
西目館
遺構
郭(平場)・虎口
場所
場所はココです
駐車場
浜館公園の駐車場
訪城日
平成25(2013)年5月7日
浜館は西目町出戸地区の南方、日本海に面した丘陵上に築かれた山城です。(写真左上ー南西麓からの遠景) でっ、現在 館祉は浜館公園として整備され、国道7号沿いに誘導杭が設置され、車道が敷設されています。(写真右上) でっ、駐車場から散策路が設けられ、まずは西側のピークに建設されている展望台を目指します。(写真左) ここも浜館の一部と思われますが、南北に細長い稜線は自然地形のまま使用されていたのでしょう。ちなみに展望台から仁賀保()方向(写真左下)、西目()方向が一望にできます。(写真右下)
現在、館祉として整備・案内されているのが東側の郭群になります。(写真左上) でっ、東側の郭群と西側の郭群?は鞍部で仕切られています。(写真右上) 東側の郭群は東西に細長い主郭を中心に西側に1段、東側に3段 腰郭を敷設したシンプルな構造になっています。でっ、西腰郭の規模は東西10−15m×南北15mほど、主郭とは3−4mの切岸で仕切られています。(写真右)
主郭(写真左下) 規模は東西60m×南北10−15mほど、中央南寄りに立派な城址碑が建てられています。(写真右下)
主郭の北側斜面は2m切り落とし幅1−1.5mの帯郭で処理され(写真左上)、さらに7−8mの高い切岸に加工されています。(写真右上) 現在、この部分に散策路が設けられていますが、往時は山腹まで急傾斜が続いていたのでしょう。
主郭の東側稜線は3−5mの段差で仕切られた3段の段郭群に加工されています。(写真左ー北東側からの近景 写真左下ー1段目の郭) 規模はそれぞれ10−15m四方ほど。
(写真右下) 主郭北側下の郭、規模は東西25m×南北15mほど。
秋田の中世を歩く