檜山城
秋田県能代市檜山
立地・構造
 檜山城は能代平野の南東端、米代川の支流檜山川左岸の西側に張り出した馬蹄状の尾根を利用して築かれた山城(比高130m)で、ピークの「将軍山」から西側・北西側に延びた尾根を削平して郭を配置した城域は非常に広範囲で、東西2.5km×南北1.5kmにわたり全山を要塞化しています。大手と想定される西側の尾根は東郭・主郭・二の郭・三の郭(本城域)と階郭式に郭が削平され、さらに主郭から延びた支尾根も段差の低い段郭群で処理 概念図 クリックすると拡大します
概念図
され、先端部分は大規模な堀切が普請されています。この本城域と「将軍山」も堀切で遮断され、東郭側には枡形虎口が残存しています。「将軍山」は檜山城の最頂部に位置する物見の郭と考えられますが、これに繋がる西・東側尾根は削平も甘く、ほぼ自然地形で利用されています。「将軍山」の北側下には屋敷地(上屋敷?)と想定されるかなり広い平場があり西側縁部に沿って低めの土塁が築かれ、東郭から繋がる虎口が確認できます。屋敷地の北側には土塁で囲郭された館神祉があり、さらに北側尾根は鞍部を挟んで北郭群に繋がっています。北郭群は本城域北側を防御する城塁壁と想定され、小ピーク3箇所を削平して築いた郭を痩尾根で結び遮断ラインとしています。痩尾根の北側斜面は急峻な断崖になり、麓の城下及びに自然の外濠をなした檜山川を外郭ラインとしています。居館は西麓の多宝院の境内が想定され、西側尾根を通り本城域に繋がるルートが大手筋と考えられます。自然の要害地形を利用して築かれた檜山城ですが、周囲には出城が配置され、さらに城の防御を堅固なものにしています。
歴史・沿革
 嘉吉3(1443)年、南部義政の攻撃を受けて津軽十三湊を追われ蝦夷地に逃れた安藤盛季は、再三にわたり津軽の旧領回復を目指し津軽に侵入するものの南部氏に拒まれ、子の康季は病死し、孫の義季も自害して安藤氏の直系は断絶しました。享禄3(1454)年、南部氏との抗争に敗れ蝦夷地に逃れた盛季の甥政季は道南のわたり党を掌握すると、康正2(1456)年に同族の秋田湊城主安東尭季の支援を受けて、子の忠季とともに米代川河口部(当時の河北郡)に進出し、明応4(1495)年頃に忠季が領内の支配拠点として築いたのが檜山城とされます。その後、檜山安東氏は尋季・舜季の代の16世紀初期には、蝦夷・津軽から若狭までの日本海交易の利権を握り、さらに愛季の代に全盛期を迎えます。天文22(1553)年、檜山安東家の家督を継いだ愛季は阿仁郡を手中に納めると、さらに永禄5(1562)年には比内郡に侵攻して独鈷城主浅利則祐を長岡城に自害に追い込み、則祐の弟勝頼を安東氏の被官として比内郡を支配下に置きました。さらに愛季は南部氏の支配下にあった鹿角郡制圧を目論み、同9(1566)年に鹿角の反南部勢力(大里館主大里備中守・花輪館主花輪中務・柴内館主柴内相模守等)を味方にして鹿角に侵攻しました。安東軍は南部方の石鳥谷館長嶺館谷内館を攻略し、さらに南部勢力の重要拠点長牛館を落城させ鹿角を制圧しましたが、同12(1569)年に石川高信・南部信直に率いられた南部軍に南北から挟撃され鹿角郡から退却を余儀なくされました。元亀元(1570)年、愛季は秋田郡へ領地を南進させ弟茂季が家督を継いでいた湊安東家を併呑し、湊家のもっていた交易(日本海交易・雄物川河川交易)利権を掌握します。しかし湊安東家に属していた豊島城主豊島玄蕃は愛季の専横に抗して秋田郡の国人下刈氏・川尻氏等とともに反愛季の兵を挙げました。玄蕃は庄内尾浦城主武藤義氏の支援を受けて安東軍と抗戦しますが安東氏の優勢で乱は終結しました。その後、武藤氏は積極的に由利郡に侵入して由利十二頭を掌握しようと画策しましたが、天正10(1582)年に愛季は反武藤の小助川氏を支援して「荒沢館の戦」で武藤軍を撃破し由利郡に影響力を持つようになります。同11(1583)年、愛季は安東氏支配下から独立を動きをする浅利勝頼を檜山城で謀殺して比内郡を掌握すると、仙北郡への侵入の機会を伺います。同15(1587)年、角館城主戸沢盛安と横手城主小野寺義道が不和になると、愛季は盛安に小野寺攻めを持ちかけますが盛安はこれを拒否します。このため仙北郡に侵攻する安東軍の攻撃目標は戸沢氏となりました。安東軍は唐松城を前線基地として唐松野で戸沢軍と武力衝突(「唐松野の戦」)しましたが、対陣中に愛季が死去したため撤退を余儀なくされました。安東家の家督は愛季の嗣子実季が継ぎましたが、湊安東家の復権を目論む豊島城主安東高季(茂季の嫡男)は南部信直・戸沢盛安の支援を受けて実季に叛旗を翻しました。(「湊騒動」安東氏の内訌) 湊安東軍に湊城を追われた実季は檜山城に籠城して抗戦しますが、南部軍が鹿角から比内郡に侵入すると秋田郡を湊安東氏に割譲する条件で和睦します。同17(1589)年、実季は阿仁郡で南部軍を撃退すると、態勢を整え和睦を一方的に破棄して秋田郡に侵攻を開始しました。実季は由利十二頭に支援を求め南北から湊安東氏を挟撃する作戦を採ります。湊方の浦城山内城を攻略した安東軍は「船越の戦」で湊高季に壊滅的な敗北を負わせると、湊城を総攻撃で落城させ高季を仙北に追い落としました。これにより実季は秋田郡の国人領主層を完全に制圧して秋田郡の領国化に成功しました。同18(1590)年、豊臣秀吉の「小田原の役」に参陣した実季は豊臣政権下に組み込まれ本領を安堵され、この頃から「秋田城介」を名乗り安東氏から秋田氏を称するようになります。慶長5(1600)年、「関ヶ原の戦」で実季は東軍(徳川方)に属し西軍(石田・上杉方)の小野寺氏を攻撃しています。同7(1602)年、実季は佐竹義宣の秋田転封の余波を受けて常陸国松岡に移封となり、檜山城には佐竹氏の一族小場義成が城代として入城、さらに慶長9(1609)年に多賀谷宣家が入城しますが、元和6(1620)年に幕府の一国一城令で廃城となりました。
秋田県の中世史については不明点が非常に多く、特に米代川河口部の能代・山本(当時の河北郡)に関しては伝承を含む史料がまったくないためほとんど解っていません。こうした中で檜山安東氏が拠点とした檜山城は唯一歴史的背景が明確な中世遺構として、周囲の大館・茶臼館とともに「檜山安東氏城館群祉」として国指定史跡に認定されています。檜山安東氏がこの地に入部したのは康正2(1456)年(頃)とされ、同族湊安東尭季の支援を受けて入部したとされます。しかしこの頃湊安東氏は仙北郡を支配下に置いた南部氏に侵略され、安東政季を支援するだけの余裕はなかったのではないかと考えられます。このため湊安東尭季は津軽を追われながらも蝦夷地に一定の勢力を保持していた安東政季を河北郡に招くことで、鹿角・比内から米代川沿いに侵攻する南部勢力に対する防御ラインにしたのではないでしょうか。その後、政季・忠季父子は河北郡の支配勢力(南部氏配下の葛西氏か?)を滅ぼしますが、長享2(1488)年に政季は河北糠野城(旧二ツ井町荷上場か?)で自害します。この糠野城が当時、南部勢力下にあった比内浅利氏との境目と考えられ、ここから米代川下流域を檜山安東氏は支配下に置き、檜山城は明応4(1495)年頃政季の子忠季により築かれたとされます。忠季の築いた初期檜山城は現在の三の郭から東郭(本城域)までの部分と考えられ、その後将軍山・上屋敷・北郭群が順次拡張・整備され、現在見られる形に完成したのは実季の時代と推測されます。檜山城を一躍有名にしたのは、天正17(1589)年に勃発した「湊騒動」による「檜山城籠城戦」でしょう。同15(1587)年9月、檜山安東氏の全盛を築き上げた安東愛季が仙北郡唐松野で戸沢盛安との対陣中に死去すると、愛季の嫡男実季が安東家の家督を継承します。しかし元亀元(1570)年に愛季に併呑され豊島城に押し込められていた湊安東茂季の嫡男高季は、湊安東家の復権を求めて実季に叛旗を翻しました。高季の行動の背景には愛季時代に横領されていた秋田湊の交易権益を回復したい秋田郡の国人領主の思惑と、愛季時代に雄物川水運を利用しての経済活動に制限を加えられていた戸沢・六郷・小野寺氏の思惑が一致して、高季はこれらの大名・国人の支援を受ける形で武力蜂起に至ったと考えられます。また当時、中央では豊臣政権がほぼ成立しており高季にすると秋田郡支配の既成事実を残すニュアンスもあったのでしょう。そして両軍の武力対峙は同16(1588)年から始まったと推測され、この頃に檜山城では籠城を想定した改修が行われたと考えられます。同17(1589)年2月、高季は実季の籠もる湊城を攻略して檜山に実季を追い落とします。さらに湊軍は檜山城を包囲して、一気呵成に攻撃を加えますが要害に阻まれ攻略には至りませんでした。この間、檜山城では和議を結ぶことが検討され、秋田郡を高季に割譲する条件が湊側に提示され、湊軍は檜山城から撤退しました。このことは乱の本質を露呈したもので、湊側にはもともと檜山安東氏を滅ぼす気はなく、檜山安東氏支配からの離脱と旧来の権益確保を目的としたため、一定の譲歩を得て軍を引いたものと推測されます。また檜山側には籠城するものの後詰を期待できる勢力はなく、南部軍が鹿角から檜山安東領へ侵攻する動きを示すなど、和議以外に策がない絶対絶命だったと考えられます。しかし和議締結後、実季は鹿角から侵攻する南部軍を撃退すると、和議を一方的に破棄して秋田郡への侵攻を開始しました。実季は由利十二頭赤尾津氏・羽川氏を味方に付けると、湊安東軍を南北から挟撃する形をとり、「船越の戦」で湊安東軍に致命的な敗北を負わせ、さらに湊城を攻略して高季を仙北郡に追い落として乱を勝利で終結させました。この勝利は檜山安東氏にとって意義のあるものとなり、秋田湊の交易権益の独占と秋田郡・八郎潟周辺の湊安東氏系の国人領主(外様)を一掃することとなり、領国経営を愛季時代よりもより一層強固なものとしました。その後、秋田城介を名乗った実季は豊臣政権に組み込まれ、さらに徳川幕藩体制下では常陸国へ転封させられました。「檜山城籠城戦」後の檜山城は、実季が湊城に移ったことで安東氏の重臣大高氏が守備し、さらに慶長7(1602)年に佐竹義宣が秋田に入封すると小場氏・加賀谷氏が入城しましたが、元和6(1620)年の幕府の一国一城令で破却されました。しかし城郭遺構はかなり良好に残存しており、古い形態の中世城郭遺構を各所に見ることができます。現在、三の郭までは林道が通り比較的楽に攻城できますが、やはり当時の要害性を感じるためには尾根に沿って攻城することをお奨めします。一応、西麓の檜山天神と北西麓の楞厳院から尾根沿いに登る尾根道が整備され、一巡できるようにコース設定されています。
檜山城  東郭の枡形虎口
メモ
檜山安東氏の要害
形態
山城
遺構
郭(平場)・土塁・櫓台・虎口・桝形・堀・土橋・水の手・館神祉
場所
場所はココです
駐車場
二の郭脇に駐車スペースあり
OR 西麓の城祉登口付近に路幅の広いスペースあり
訪城日
平成18(2006)年5月3日
平成19(2007)年11月29日
檜山城遠景
西側から檜山城を見たところです。西側の山麓から主郭までは相当距離があり、西側に張り出した尾根は馬蹄状に延びています。
登り口
西麓の霧山天神参道が本来の大手口と考えられます。初っ端から傾斜がきついです。
霧山天神
参道を登り切ると霧山天神の社地になります。削平状況も良好(神社建設時か?)で、往時はなんらかの監視施設があったと考えられます。
尾根上の郭
霧山天神からしばらく痩尾根道を進みます。途中には数箇所、大手を防御する郭らしき削平地が確認できます。
尾根道
痩尾根は馬の背状に人一人通るのがやっとのところもあります。左右は急斜面の断崖です。
土橋
尾根道が急斜面になる直前には、竪堀で狭められた土橋が確認できます。左側(南側)の竪堀は車道で消滅しています。
古寺(寺屋敷)
尾根道の北側下にはかなり広い空間があり、寺屋敷と称されています。往時は戦勝祈願・祈祷をおこなった社寺があったと想定されます。
二重堀切
中世城郭といったらこれでしょう。三の郭手前には大手筋を遮断する二重堀切が穿たれています。写真は1本目の堀切で、上辺7−8m、深さ6−8mほどの大規模な薬研堀です。
三の郭
東西130m×南北40mの細長い郭です。西側縁部には分厚い土塁(写真右)が築かれ、大手筋の監視と檜山城北側の物見を兼ねた櫓台だったと想定されます。南側下には城道を兼ねた帯郭(写真左下)が巻かれています。三の郭側の切岸は高さ6−7mほど、急峻です。
二の郭
東西60m×南北40m。主郭の西側に張り出した郭(写真左上)で、南側縁部には低めの土塁が確認できます。さらに西側にスロープ状に延びた尾根は低い段差で区画され、兵隠しと考えられる塹壕(写真右)が残存しています。先端部分はお決まりの堀切(写真左下)で処理されていますが、この堀切は高さ7−8mの切岸で削崖されたものです。
主郭
東西70m×南北60m。西側尾根のピークに位置し、西側以外は高さ7−8mの切岸(写真左下)で防御されています。南側には微高に盛土された建物礎石(写真右)がありますが、なんの施設があったのかは不明。
南側の尾根
主郭から南側には痩せた支尾根が2本派生しています。この部分も低い段差で区画されたスロープ状の郭で処理され、先端部分は堀切(写真右)で遮断されています。中世城郭の教科書のように普請されています。
東郭(仮称)
東西60m×南北50m。幅広の土塁で南北に仕切られ、北側には帯郭が配置されています。東側は堀切土橋で「将軍山」・上屋敷に繋がり、虎口は秋田県ではここだけと思われる(管理人はここでしか見たことがありませんが、他にもあるかも・・・・・))中世の枡形虎口(写真右)が良好に残存しています。ただ何故、将軍山方向に配置されたのかは不明。

東郭と「将軍山」とを分断する堀切で幅10mほど、土橋で枡形虎口と繋がっています。一応ここで城域としては完結しており、忠季が築いた初期檜山城はここまでだったと考えられます。
能代平野
三の郭から米代川河口部方向を見たところ。檜山川に沿った谷間には羽州街道が通り、監視砦の大館が谷戸を守備しています。
将軍山
北郭群
檜山城下