大 館
秋田県能代市田床内・扇田
立地・構造
 大館は能代平野の南東部、米代川左岸の半独立丘陵上(比高40m)に築かれた平山城です。城の規模は東西450m×南北650mほど、南東側の丘陵基部を三重堀で遮断して城域を区画しています。内部は東西堀(幅10m×深さ?m)で仕切られた南北の2郭からなり、規模は北郭が東西230m×南北300m、南郭が東西280m×南北250mほど。また南郭から南西側に張り出した端部も堀で仕切って郭が設けられています。丘陵基部を切った三重堀はそれぞれ幅7−10m×深さ2−4mほど、南西側の沢に吸収されています。同地は米代川流域を見渡す高所に位置し、また米代川に沿って内陸部に繋がる街道を監視す
る要衝に立地しており、軍事的な性格を有した城砦と推測されます。また規模が大きいことから兵の駐屯所(兵站所)のような性格もあったのでしょう。

 築城時期・築城主体・城主ともに不明。古 くは『日本三代実録』の元慶二(878)年四月二十八日の条に記された「能代営」に比定されています。この頃、奥羽では「元慶の乱」と呼ばれる大規模な蝦夷の武力蜂起が勃発し、このため大和朝廷の蝦夷地経営の拠点 秋田城は蝦夷に占拠され、また「能代営」も蝦夷の攻撃を受けています。発掘調査から柵列祉や竪穴式住居、土師器、須恵器等が確認され、古代の集落だったことは確かなようですが「能代営」とする決定的な物証はないようです。なお15世紀中期、米代川河口部に進出した檜山安東氏が檜山城の支城として大館を整備したと想定されます。
歴史・沿革
大館 丘陵基部の三重堀(内堀)
メモ
古代 ー 大和朝廷の「能代営」か?
中世 ー 檜山城の支城?
形態
平山城
別名
能代営か?
遺構
郭(平場)・堀・虎口
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成19(2007)年11月25日 平成25(2013)年5月9日
大館は米代川下流域の南岸、扇田地区東方の丘陵上に築かれた平山城です。(写真左上ー西側からの遠景) でっ、城へは北西端に標柱が建てられ、ここからアプローチでき(写真右上ー登り口)、じきに北郭に辿り着きます。(写真左) 北郭の規模は東西230m×南北300mほど、北東端からは前面に米代川沿いの沖積平野や米代川北岸の東雲台地が眺望できます。(写真左下) なお北郭南郭間を画した東西堀は幅10mほど、近世 開墾されたせいか かなり埋没しています。(写真右下)
南郭(写真左上) 規模は東西280m×南北250mほど、南西端に虎口が設けられ(写真右上)、虎口からの導線は南西側を分断した堀に繋がっています。(写真右) 堀の規模は幅10m×深さ3−4mほどの箱堀構造、南端は虎口状になっていて(写真左下)、南郭南側の帯郭に繋がっています。(写真右下) 帯郭は南郭から7−8m切り落としたもので幅10−15mほど、南郭の南西側までカバーしています。たぶん大手導線は南西麓から帯郭に繋がり、さらに堀底を通って南郭南西端の虎口に繋がっていたのでしょう。
大館最大も見どころは南東側の稜線を断ち切った三重堀でしょう。(写真左上) 三重堀は幅25−30mの稜線を切り刻み、西側の端部は沢に吸収されています。(写真右上) このうち内堀は幅10m×深さ3−4mと規模が大きく(写真左)、また隣接した中土塁は下幅5−6m×高さ3−4mほど。(写真左下) でっ、中堀、外堀はかなり埋没しているらしく規模は幅7−8m×深さ2mほど、外堀の外側に土塁が築かれています。(写真右下ー中堀)
秋田の中世を歩く