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北 条 氏 政・氏 照 の 墓 所 |
神奈川県小田原市栄町 |
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北条氏政は北条早雲を祖とする小田原北条氏の四代当主で、天文7(1538)年 三代当主 左京大夫氏康の次男として小田原で生まれました。母は瑞渓院(今川氏親の娘)、幼名は松千代丸。天文21(1552)年、兄の新九郎
氏親が夭折したため北条家の世子となり、永禄2(1559)年 父 氏康の隠居により家督を継ぎました。そして元亀2(1571)年、父 氏康の死去により北条家政の実権を握った氏政は「甲相同盟」を復活させるとともに「越相同盟」を破棄し、翌3(1572)年 武田信玄の上洛戦に北条勢を参陣させています。天正10(1582)年2月、織田信長の信濃・甲斐侵攻により甲斐武田氏が滅亡すると、氏政は嫡子 左京大夫氏直と織田家の姫との婚姻を条件に領国の安泰と織田家との友好関係を模索します。しかし同年6月、信長が「本能寺」で横死すると氏政は上野に侵攻して織田方の関東管領 滝川一益と対峙します。そして「神流川の戦」に勝利し、滝川勢を上野から追い落とした北条勢は滝川勢を追って信濃・甲斐に進出して徳川家康と対峙しました。(「天正壬午の乱」) 天正16(1588)年、「九州討伐」を終えた豊臣秀吉は氏政・氏直父子に後陽成天皇の聚楽第行幸への列席を求めます。しかし氏政はこれを拒否し、代わって8月 弟の美濃守氏規を名代として上洛させています。天正17(1589)年、かねてから北条・真田の領土紛争地であった上野国沼田は秀吉の裁定により解決し、氏政の上洛が決定します。しかし同年10月、北条氏の被官
猪俣能登守邦憲が独断で真田領名胡桃城を攻撃し、占拠する事案が発生しました。このため面目をつぶされた秀吉は北条氏の追討を決めると 同年12月、諸大名に陣触れを発っし、翌18(1590)年2月 上方勢は小田原を目指して出陣しました。一方、北条氏は領内の被官・国衆に小田原への参陣を命じ、籠城戦に備えました。しかし関東に侵攻した上方勢が北条方の主城である山中城、下田城、松井田城、玉縄城、岩槻城、鉢形城、八王子城、津久井城等を次々に陥落させ、小田原に付城 石垣山城を築いて小田原勢を圧迫したため、同年7月 氏政は降伏を余儀なくされ、小田原城は開城されました。戦後、当主の氏直は高野山に追放され、氏政と弟の陸奥守氏照は切腹を命ぜられ、7月11日 城下の田村阿安斎邸で自害したと伝えられます。自刃後、氏政の遺骸は北条氏の氏寺 伝心庵に埋葬されました。その後、伝心庵は小田原大久保藩時代に寺町に移されましたが、墓所が永く放置されていたため荒廃し、小田原稲葉藩時代に北条家追悼のため作り直されたものと伝えられます。現在の墓所は大正12(1923)年の「関東大震災」以後、復興されたもの。(場所はココです)
<氏政の辞世の句> |
「雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風」
「我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば」 |
<氏照の辞世の句> |
「吹くと吹く 風な恨みそ 花の春 もみじの残る 秋あればこそ」
「天地の 清き中より 生まれきて もとのすみかに 帰るべらなり」 |
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墓碑
墓碑は左から稲葉氏の建立した笠塔婆型墓碑、氏照の墓碑、氏政の墓碑、伝氏政夫人の墓碑。稲葉氏が建立した笠塔婆型墓碑には氏政・氏照の戒名が刻まれています。 |
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墓碑
氏政の戒名
「滋雲院殿勝岩傑公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北條相模守氏政」
氏照の戒名
「青□院殿透岳關公大居士 北條陸奥守氏照 天正十八庚寅年七月十一日」 |
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