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石垣山城は小田原城から南西3kmの通称 石垣山(笠懸山)に築かれた山城です。(写真左上ー西側の箱根湯本からの遠景 写真右上ー東側の小田原からの遠景) 以前(30数年前)は東麓のJR早川駅からエッサエッサと登ったのですが、現在
城祉は「石垣山一夜城歴史公園」として整備され、文明の利器を使ってアプローチしました。でっ、管理人は東口から城へアプローチしましたが、東口前には石垣に使用するため切り出された石塁が展示されています。(写真左ー石塁
写真左下ー東口 写真右下ー南郭への導線) |
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南郭(写真左上) 規模は東西40m×南北30mほど、北西隅に設けられた虎口は桝形構造になっていて、東ー南面は高さ10−15mの高石垣で構築されています。(写真右上)
また北側中央に中門に繋がる導線が設けられています。(写真右) |
西郭(写真左下) 規模は東西80m×南北30mほど、虎口は中門に繋がる東側に設けられ(写真右下)、南西隅に櫓台が構えられています。また側面は高石垣で構築され、塁線は直状になっています。 |
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(写真左上) 西郭の櫓台 |
(写真右上) 西郭南側の高石垣 |
西郭から二の郭へは中門を通り、本丸の南 ⇒ 東側下に設けられた導線で繋がっています。(写真左ー南東隅の門祉 写真左下ー本丸東側下の導線) でっ、導線の側面に構築されている高石垣がもっとも良好に残存している石垣と思われます。(写真右下) |
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(写真左上) 石垣の模式図 |
二の丸(写真右上・右) 別名 馬屋曲輪。規模は東西90m×南北70mほど、北端に櫓台が構えられています。(写真左下) 現在、櫓台はただの土壇になっていますが、昭和初期までは石垣が残存していたようです。 |
井戸郭(写真右下) 二の郭の北東部に位置し、もともと北方向に馬蹄状に開いた谷戸を堰き止めて構築したようです。しかし ・・・・・、こんなデカイ 井戸って見た記憶がないな〜〜〜。別名 「淀君化粧井戸」、「栄螺井戸」。 |
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二の丸から本丸へは北西部に設けられた出桝形を通り(写真左上・右上ー左折させる)、本丸虎口の手前で導線をふたたび左折させる二重の桝形導線になっています。(写真左) |
本丸(写真左下) 規模は東西90m×南北80mほど、南西隅に石積の天守台が構えられていたようです。(写真右下) 天守台の規模は20m×15m×高さ3mほど、南面(西郭側)に石垣が残存しています。また虎口は北西隅の北虎口のほか、東側中央にも桝形構造の東虎口が設けられていました。 |
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(写真左上) 天守台南側の石垣 |
(写真右上) 本丸の東虎口 |
石垣山城は総石垣構造で構築された城郭としては箱根以東では最初の城郭とされます。でっ、石積は近江の「穴太衆」による「野面積」ですが、一部には成型した石塁も見られます。本丸周囲の石垣は高さ10−15mほど、「城割」により整然とした石垣は少なく ほぼ崩落しています。(写真右ー本丸北側のの残存石垣 写真左下ー本丸南東隅の石積 写真右下ー本丸南側の石垣) |
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(写真上) 本丸から見た小田原市街地、事前に小田原城の場所を確認せず撮影したため ・・・・・、小田原城は写っていませんでした。 |
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(写真左) 本城域・南出丸間の堀、規模は幅30−50m×深さ10mほど。南出丸は大森氏、小田原北条氏の支城だったと伝えられます。 |
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