赤 神 神 社 五 社 堂
秋田県男鹿市船川港本山門前
 一般的に「五社堂」と呼ばれる「赤神神社」は貞観2(860)年、慈覚大師円仁がこの地を訪れた際、「赤神山 日積寺 永禅院」として創建し赤神明神を祭神としたことを初源とします。その後、建保4(1216)年 源実朝の請願により別当 円転が比叡山の山王七社をこの地に勧進しましたが、二社が廃れ このため五社堂と呼ばれるようになりました。古い棟札によると建武2(1335)年に安倍威季が、応永5(1372)年に安倍高季が堂社の修理を施していることから中世には湊安東氏の庇護下に image2383.jpg
現地説明板の図
おかれ、また近世には久保田藩主 佐竹氏に篤く信仰され、現在の五社堂は宝永7(1710 )年 佐竹藩主 佐竹義格の命により建立されました。最盛期、広い境内には九ヶ寺四十八坊があったとされますが、明治の廃仏毀釈により仏教施設は廃れ、現在は五社堂と長楽寺が残るのみ。平成2(1990)年、国の重要文化財に指定。(場所はココです) 
ー な ま は げ 伝 説 ー
 景行10(80)年(景行11 81年とも)、漢の武帝は五匹の鬼(蝙蝠から変化)を従えて天より男鹿に降り立ちました。そして武帝が正月十五日だけ鬼たちに自由を与え、毎日のように鬼たちを使役したため、鬼たちは正月十五日 里におりて乱暴狼藉を繰り返しました。このため困った村人は鬼たちに「海辺から本山の頂上まで、一晩で しかも一番鶏が鳴く前に千段の石段を築くことが出来たら、娘を毎年 一人ずつ差し出そう。もし出来なければ山に帰ること。」と持ちかけます。提案にのった鬼たちは日暮れを待って石段ずくりに取り掛かると あれよあれよいうまに石段を仕上げたため、慌てた村人が鶏の鳴き真似をしたところ鬼たちは驚き 山へ逃げていきました。この時、鬼が作った石段は999段とされ、漢の武帝は赤神と伝えられます。
赤神神社五社堂は日本海に面した門前地区背後の丘陵上に構築された宗教施設で、往時 長楽寺から五社堂間の比高差80mの斜面に九ヶ寺四十八坊の堂宇伽藍が構えられていたそうです。(写真左上) でっ、五社堂へは門前地区から参道がありますが、管理人は長楽寺までショートカットしました。(写真右上ー長楽寺本堂 写真左ー長楽寺仁王門) ちなみに長楽寺仁王門が999段の石段のはじまりになります。でっ、ここには絵図に描かれている池があり、対岸に食堂祉があります。(写真左下ー五社堂の登口 写真右下ー池)
ちなみに食堂祉に隣接して徐福塚宝夾印塔があります。(写真左上・右上) 徐福は秦の始皇帝の命を受けて不老不死の仙薬を求めた人物。でっ、食堂祉の1段上にあるのが薬師堂祉。(写真右) 遺構はありませんが長楽寺の宝物館が建てられています。ここからさらに登ると紫燈堂祉があります。(写真左下)
999段の石段は加工度の低い自然石を利用したもの、下をよ 〜〜〜 く見て歩かないとコケます。ちなみに管理人は2度 コケました。(笑)(写真右下)
999段の石段を登り詰めると楼門祉に辿り着きます。(写真左上) 楼門の側面には下幅6m×高さ2mの土塁が築かれています。(写真右上) でっ、楼門のある部分が境内の下段にあたり、ここには中島をもつ「御手洗の池」「姿見の井戸」があります。(写真左ー下段内部 写真左下ー「御手洗の池」 写真右下ー「姿見の井戸」「姿見の井戸」は毎年7月7日、参拝者が一年の吉兆を占った井戸とされ、ハッキリ映ればその年は健康にすごせ、ハッキリしなければ災難や不幸に遭うと伝えられます。
境内上段は南北の2段構造になっていて、上段に五社堂が祀られ、下段に長床がおかれていたようです。(写真左上ー長床祉 写真右上・右・左下ー五社堂) 五社堂は江戸中期に建てられたもので、左から「十禅師堂」「八王子堂」「中堂(赤神堂)」「客人(まろうど)権現堂」「三の宮堂」と呼ばれ、「中堂」に円空作と伝えられる「木造十一面観音菩薩立像」が祀られています。
(写真右下) おまけ ゴジラ岩
船川から門前に向かう道すがらにあります。なぜ ゴジラ岩かって?、見ればわかるっしょ!!!。
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