|
百川館は八郎潟の西岸、西から東方向に張り出した湖岸段丘突端(比高30m)に築かれた単郭構造の丘城で、西側の丘陵続きを堀で断ち切って館を独立させています。館の規模は100m四方ほど。本郭は東西60m×南北70mほど、西縁に堀に沿って高さ2mの土塁が15m築かれ、いたって単調な構造になっています。基本的に開発領主の日常居館として築かれたと思われますが、東麓に潟西街道が通っており、街道を扼する機能も想定されます。 |
 |
築城時期・築城主体・館主ともに不明。寛喜3(1231)年、小鹿島の地頭職 橘右馬允公業の子 乙王丸宛ての『将軍家政所下条案』(『肥前小鹿島文書』)に「出羽国秋田郡小鹿島内桃河、吉田」と記されていて、橘氏の所領 「桃河」に橘氏から派遣された代官が拠していたとも推測されます。 |