草 井 崎 城
秋田県湯沢市(旧雄勝町)横堀字館ノ沢
立地・構造
 草井崎城は役内川下流域の右岸、西方向に張り出した稜線突端(比高90m)に築かれた山城です。規模は東西60m×南北150mほど、東側稜線を多重堀で切り刻んで城域を独立させています。城縄張りは頂部に構築された主郭を中心に北西側斜面を段郭群に加工したシンプルな構造にな
草井崎城 概念図
っています。主郭の規模は東西15m×南北5−6mほどと小規模なもの。草井崎城は全体的に小規模な城砦ですが、同城の北東3.8kmに小野城が、南西1.8kmに浅萩館があり、草井崎城は小野寺氏がネットワーク化した「役内川城砦群」の物見砦のひとつとして取り立てられたものと思われます。

 築城時期・築城主体ともに不明。『柞山峯之嵐』草井崎の砦は中村の郷にあり、南西には大沢越に新庄領村山郡及位村との境、小野寺の臣 菅内記、同勘四郎等之を守る」と記されています。城主 菅氏は在地から発生し、役内川下流域を支配した村落領主と思われますが、詳細な事績は不明。『奥羽永慶軍記』(あまり使用したくないのですが ・・・・・)に(ここ)草井崎とて馬手の方、山上に要害の有けるに、小野寺の侍 菅内記、同勘四郎、同勘助三人、昨日 小野寺小五郎に属し 八口内へ向ひけるが、云甲斐なく攻破られ、是を口惜き事に思ひ、さらば爰にて最上勢を待うけ、討死して先の恥を雪がんといふままに、手の者纔十人 ・・・・・、十人の者共、手に手に鑓取て、九折の道に支へ、向ふ敵に鑓を合せ、半時ほど戦ひ、終に討たれ死にけり」と記され、文禄2(1593)年 草井崎城は鮭延典膳秀綱率いる最上勢の猛攻をうけて陥落したと伝えられます。
歴史・沿革
草井崎城 主郭東側の大堀切
メモ
役内川城塞群
小野寺氏の被官 菅氏の「要害」
形態
山城
別名
・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・土塁(土壇)・虎口・堀
場所
場所はココです
駐車場
おしら様の駐車場借用
訪城日
平成26(2014)年5月12日
草井崎城は役内川下流域の右岸、赤塚地区背後の丘陵上に築かれた山城です。(写真左上ー南西側からの遠景) でっ、西麓におしら様が祀られ、南西麓の山裾に「おしら様の清水」があって、管理人はここからアプローチしました。(写真右上ー「おしら様の清水」) でっ、ケッコウ急峻な斜面を登り、まずは南側尾根を目指します。(写真左) でっ、尾根に辿り着いたら、ひたすら上を上を目指します。(写真左下) 尾根には規模の小さい平場が見られますが(写真右下)、規模は5m四方ほど、この平場の10−15m上に主郭があります。
主郭(写真左上・右上) 規模は東西15m×南北5−6mほど、ムチャクチャ小さいです。でっ、東端に下幅3m×長さ6m×高さ1−1.5mほどの土塁(土壇?)が築かれています。(写真右) 櫓台にしては小さいよな 〜〜〜。
草井崎城の城縄張りは主郭を中心に北西側斜面に階段状に帯郭・段郭群を構築したシンプルな構造。(写真左下ー段郭群@) でっ、導線は東側に設けられ、各郭に繋がっています。(写真右下) 段郭群の規模は幅2−5m×南北10−25m、各郭間の段差は2−3mほど。
(写真左上) 段郭群A
(写真右上) 段郭群B
(写真左) 段郭群C
(写真左下) 段郭群F
(写真右下) 北西郭、規模は東西5−6m×南北15mほど
 
草井崎城 堀切
草井崎城の見どころは主郭から東側に延びた稜線を断ち切った九重堀切でしょう。(写真左上ー主郭から多重堀切方向) とは言っても規模が大きいのは主郭東側の1条目の堀のみ。(写真右上) 規模は幅6−7m×深さ7−8mほど、北側に延びた堀底は豪快な竪堀に加工され段郭群を区画しています。でっ、ほかの堀は幅2−4m×深さ1−1.5mと小規模なもの。(写真右ー2条目の堀 写真左下ー4条目の堀 写真右下ー9条目の堀) 近場の役内川城砦群の中にはしなの館のように巨大な多重堀切を用いている城砦もあるのですが ・・・・・。
ー 館 堀 城 ー
 草井崎城の南方600mの平野部に築かれた平城で、草井崎城「要害」とした菅氏の日常居館と推測されています。明治22(1889)年作成の公図によると規模は推定 東西200m×南北150mほど、土塁と二重堀(内堀・外堀)で囲まれた内郭・外郭からなる輪郭構造の方形館だったようですが、現在は宅地・耕作地に改変され 城域は不明瞭になっています。一部、北側の濠と思われる幅7−8mの細長い地筆が確認できるのみ。(場所はココです)
北東からの近景 南東からの近景
北側の濠(堀)祉? 北側の濠(堀)祉?
秋田の中世を歩く