備 中 高 松 城
岡山県岡山市北区高松
立地・構造
 備中高松城は足守川の左岸、足守川と高梁川支流の旧河道により形成された賀陽デルタの微高地(比高2−3m)に築かれた平城で、低湿地帯を利用して要害としています。全体の規模は東西200m×南北550mほど、城縄張りは南北に主郭ー二の郭ー三の郭を連郭式に繋ぎ、主郭・二の郭の北ー東側をカバーするように外郭が設けられ、北・東方向を意識した防衛構造になっています。規模は主郭が東西110m×南北100m、二の郭が東西90m×南北120m、三の郭が東西170m×南北70mほど、各郭は濠で分断され、架橋で導線を確保していたと想定されます。高松城は中世の平城としては比較的 規模は大きく、在
備中高松城 概念図
地支配の統治拠点とともに、有事の際の籠城にも耐えられるように構築されていたと思われます。また築城当初、高松城主郭(あるいは主郭・二の郭)のみの城郭として構築され、後に軍事緊張が高まった頃、外郭を含む巨大な平城に拡張整備されたものと推測されます。

 築城時期は不明。通説では備中松山城主 三村修理亮家親に与力した備中半国の旗頭 石川左衛門佑久智(久孝)により、備前の宇喜多勢に対する備えとして天正年間(1573−92年)以前に築かれたとされます。天正2(1574)年、宇喜多直家が毛利と同盟を結ぶと、三村修理進元親は毛利との同盟を破棄して織田信長と誼を通じ毛利と対峙しました。しかし同3(1575)年、元親は毛利・宇喜多連合軍の攻撃を受けて自害し、三村氏は滅亡しました。(「天正の備中争乱」) この争乱で高松城主 石川久智も没落し、乱後 高松城は久智の娘婿で毛利方に寝返った清水長左衛門宗治に与えられました。(宗治が高松城主になった時期は他に永禄8年説もあるようです) 毛利の支配下に入った清水宗治は天正6(1578)年、小早川隆景に加担して播磨上月城攻めに参陣するなど毛利の軍役を担っています。同10(1582)年4月、羽柴秀吉は宇喜多の案内で備中に侵攻すると毛利方の「境目七城」攻略に着手します。羽柴勢は冠山城・宮路山城・加茂城を陥落させ、清水宗治の籠る高松城を攻撃しましたが失敗に終わります。このため同年5月、秀吉は黒田官兵衛孝高の献策により、城の周囲に堰堤を築いて足守川を堰き止め、高松城を水攻めにしました。この間、毛利も吉川元春・小早川隆景が高松城の後詰として岩崎山に陣を張り、高松城を挟んで羽柴勢と対峙します。しかし6月2日、織田信長が「本能寺」で横死すると秀吉は信長の死を隠して毛利に和睦を提案し、備中・美作の宇喜多への割穣、清水宗治の切腹を条件に和議を結ぶと畿内へ引き返しました。戦後、高松城は宇喜多氏に接収され、宇喜多の重臣 花房志摩守正成が城代をつとめましたが、慶長4(1599)年 正成は宇喜多家中の対立から内紛を起こしたため宇喜多家から退散しました。慶長5(1600)年の「関ヶ原」後、東軍に加担した花房助兵衛職之が備中国都宇・賀陽郡を給されて高松城に入城し 陣屋を構えましたが、その後 備中国阿曽に陣屋を移したため高松城は廃城となりました。
歴史・沿革
高松城 主郭に弔われる清水宗治の首塚
メモ
備中・備前の「境目七城」
形態
平城
別名
・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・濠祉
場所
場所はココです
駐車場
高松城址公園駐車場
訪城日
平成21(2009)年3月13日
高松城は周囲の水田面より2−3mほど高い微高地に築かれた平城で、往時 周囲は沼沢地だったとされます。このうち主郭は濠で外部と分断され規模は東西110m×南北100mほど(写真左上)、西側の濠(写真右上)や二の郭間の濠(写真左)が残存しています。現在、内部は高松城址公園として整備され、城址碑が建てられ(写真左下)、清水宗治の首塚が弔なわれています。(写真右下)
<宗治の辞世の句
「浮世をば 今こそ渡れ武士(もののふ)の 名を高松の苔に残して」
二の郭(写真左上・右上) 規模は東西90m×南北120mほど、現在は資料館が建てられ、西側と三の郭間の濠祉が残存しています。(写真右)
三の郭(写真左下) 規模は東西170m×南北70mほど、北東側は主郭・二の郭をカバーした東側の外郭に繋がっています。でっ、主郭・二の郭の東側をカバーした外郭も東側は沼沢・湿地帯に面していました。現在、沼沢は水田になっていて、縁部にかすかな段が見られます。(写真右下)
築堤(写真左上)
「高松城の戦」時、秀吉は門前から蛙ヶ鼻までの約4kmにわたり高さ7−8mの築堤を築き、足守川を堰き止めて高松城を水攻めにしたとされます。このうち蛙ヶ鼻に築堤の一部が残存し整備されています。発掘調査からは土留に使用されたと思われる木杭・むしろ等が確認され、トレンチが公開されています。(写真右上・左)
ー 「 高 松 城 の 戦 」 陣 所 ー
 天正9(1581)年、毛利との直接対決「鳥取城の戦」で勝利を収めた羽柴秀吉は、山陽道に矛先を変え同10(1582)年4月 備中に侵攻します。これに対して毛利は備中・備前の国境に「境目七城」を取り立てて羽柴勢に備えました。しかし「境目七城」は羽柴勢の猛攻で陥落し、高松城を残すのみとなりました。4月27日、羽柴勢は高松城を一気呵成に攻め立てましたが、討死にが数百人に及び攻略には至りませんでした。このため秀吉は黒田官兵衛の献策より高松城を水攻めにすることとし、5月8日 築堤工事を開始します。この間、高松城主 清水宗治は毛利に救援を要請し、吉川元春・小早川隆景が後詰として備中に出陣します。しかし毛利勢が到着した頃には築堤工事は終了し、湖に浮かぶ高松城に近ずくこともできず、兵糧の補給路も断たれました。その後、両軍は高松城を挟んで対峙しましたが、6月3日 「本能寺の変」を知らせる明智光秀の密使が羽柴方に捕まり事態は急変します。毛利方は高松城の救援が無理と判断し、また秀吉は早急に毛利と和睦して畿内に戻りたいという利害が一致し、両軍は「備中・美作の割穣」「清水宗治の切腹」を条件に和議を結びました。そして4日、清水宗治は兄の清月、家臣の難波伝兵衛、末近左衛門とともに自刃しました。そして秀吉は「山崎の戦」で明智光秀を破り、翌11(1583)年には柴田勝家を自害に追い込み、信長の貢献者の地位を確実なものとします。一方、毛利輝元は秀吉との和睦を維持し、秀吉の天下統一に協力して豊臣政権下では五大老となりました。
羽柴方の陣所は高松城の北西ー北ー北東ー東ー南東側の丘陵先端に弧状に構築され、足守川西岸の毛利方と対峙しました。この内、羽柴秀吉の本陣は石井山に置かれていました。(写真左)
*主な陣所と守備将
報恩寺山陣ー加藤清正・宇喜多勢 小山陣(写真左上)−津田与左衛門・生駒市左衛門 八幡山陣ー宇喜多勢 岡之鼻陣ー羽柴秀勝(織田信長の四男) カジヤマ陣(写真右上)ー宇喜多勢か? 坂古田陣ー? 御崎山陣ー堀尾茂助 鼓山(立田山)陣ー羽柴秀長
訪城当日、雨のため廻れたのは岡之鼻陣のみです。(写真左上) 岡之鼻陣高松城の北東1kmの丘陵先端(比高15−20m)に築かれた陣所で羽柴秀勝が守備したと伝えられます。規模は東西60m×南北120mほど、内部は平坦に削平され、中央部には 櫓台と思われる土壇が築かれています。(写真右上) 岡之鼻陣からは湖に浮かんでいたであろう高松城が眺望できます。(写真右)
毛利方の陣所は足守川を挟んで高松城の西側丘陵上に構築されていました。(写真左下ー岩崎山陣ー吉川元春・楢崎十兵衛・木原兵部・井上伯耆守 写真右下ー天神山陣ー小早川隆景・小田孫兵衛・細川兵部・杉原播磨守)