された内容は「誰それがどうした」とか軍記物としてはケッコウ面白いのですが、史料としてはどうでしょうか。ハッキリ言って突っ込みどころ満載です。でっ、地名として唯一 出てくるのが由利十二頭軍が陣を敷いたとされる「大沢山」のみ、実は場所はハッキリわかっていません。常識的に考えると雄物川西岸、大沢地区背後の丘陵とするのが妥当なのでしょう。(現在、「大沢山」と呼ばれる山はないようです) ま 〜〜〜、ここだと旧東由利町玉米からの本荘街道(現在の国道107号)が通っていて、由利郡からのアクセスに充分対応できるし、また東側には小野寺領が眺望できます。でっ、「油利・山北境合戦ノ事」には戦闘のあった場所が具体的に記されていませんが、たぶん平野部の大沢周辺が そうだったのでしょう。でもここで疑問が。雄物川西岸の大沢地区には小野寺氏の支城が3ヶ所あります。これらの支城は由利衆に備えたものと推測され、本荘街道を挟み込むように館森館と大沢城が、また雄物川に面した断崖上に三吉山末館が構築されています。どの城も城自体は小規模なものですが、兵の駐屯は可能な空間を控えており、当然
これらの城に兵を詰めていたと思うのですが、これらについては記されていません。また支城を持っているということは、無理に野戦に持ち込む必要もなく、長期戦に持ち込めるということ。ハッキリ言って、野戦を行った場合
両陣営ともに相当数の被害を計算に入れねばならず、いきりたって野戦に突入したとは考えられないし、また普通はしないでしょう。また「大沢山」を占拠した由利衆がノコノコと山を下りてくるというのもなんだかな 〜〜〜。でもそれ以前に一番大きい疑問は天正10年のこの時期、双方ともにオールスターズで軍陣が組めたかということ。これが一番重要。なぜなら当時の政治情勢がこれを簡単に許すとは考えずらいのだが。
天正9(1581)年、鮭延典膳秀綱を降した最上義光は有屋峠を境に小野寺氏と対峙し、また庄内の武藤氏とも敵対関係にありました。このため小野寺氏は対最上という共通項の関係から武藤氏と同盟を結びます。一方、最上氏は檜山安東氏と誼を結んでこれに対抗しました。またこの状況下で由利十二頭はどうだっ |
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