大 友 氏 館
大分県大分市顕徳町
立地・構造
 大友氏館は大分府内平野の中央部、大分川左岸の平野部に築かれた平城です。規模は一辺約200mほど、南東部が南方向に張り出した不整方形の館と推測されています。館は溝と築地塀で区画され、東側中央に大門が設けられていました。内部には館の中心建物 「大おもて」や常御殿など複数の建物・施設が設けられ、南東部に巨大な庭園が構築されていました。なお江戸期に作製された『府内古図』によると府内城下は大友氏館の北ー東側に設けられていました。

  築城時期は不明。築城主体・館主は豊後国守護職 大友氏とされます。大友氏は藤原北家魚名を祖とする藤原秀郷(あるいは藤原利仁とも)の流れを汲む、相模国足柄上郡「大友郷」の領主でした。そして建久
大友氏館 南蛮BVNGO交流館パンフレットの所収図
南蛮BVNGO交流館パンフレットの所収図
7(1196)年、大友能直(よしなお)が豊前・豊後両国の守護職兼鎮西奉行に補任され、以後 豊後国守護職は大友氏が世襲しました。その後、文永9(1272)年 能直の孫 頼泰が鎮西奉行に任ぜられて豊後に下向し、文永11(1274)年の「文永の役」、弘安4(1281)年の「弘安の役」で軍功を挙げています。そして この頼泰の代に大友氏は相模国「大友郷」から豊後に移住土着したとされます。元弘3(正慶2)(1333)年、隠岐を脱出した後醍醐天皇は討幕の綸旨を全国に廻します。そして九州では大友貞宗が少弐貞経、島津貞久等とともに鎮西探題 北条(赤橋)英時を自害に追い込んでいます。同年、鎌倉幕府が瓦解し「建武政権」が発足しましたが、足利尊氏は新政権に反旗を翻します。しかし足利勢は畿内での(いくさ)に敗れて九州に落ち延びました。そして九州に逃れた尊氏は貞宗のあとを継いだ千代松丸に「氏」の一字を与え、千代松丸は氏泰と名乗りました。建武5(延元3)(1338)年、室町幕府が成立すると氏泰は豊後の他に肥前、豊前、日向国の守護職に任ぜられ、大友氏館は氏泰の代に築かれたと推測されています。その後、大友氏は氏時ー氏継ー親世ー親著ー持直ー親綱ー親隆ー親繁ー政親ー義右ー親治ー義長ー義鑑と続き、戦国中後期の宗麟義鎮の代に大友氏は北九州最大の戦国大名に成長しました。しかし天正6(1578)年の「耳川の戦」での敗戦後、大友領内では国衆の離脱が頻発し、同14(1586)年 大友氏館は島津家久率いる島津勢の攻撃を受けて焼き討ちされました。なお顕徳町の大友氏館は1990年代の発掘調査から確認された城郭遺構で、それ以前は南方900mに位置する上原館が大友氏館と認識されていました。また大友氏館から庭園遺構、掘立柱建物祉が確認され、東南アジア産の陶磁器、キリシタンのロザリオやメダルが出土しています。
歴史・沿革
大友氏館 復元庭園
メモ
豊後国守護職 大友氏の守護所
形態
平城
別名
・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・庭園祉
場所
場所はココです
駐車場
専用駐車場あり
訪城日
令和4(2022)年6月2日
大友氏館は大分市街地の南東部、大分川左岸の平野部に築かれた平城です。でっ、大友氏館は1990年からの発掘調査で発見された比較的 新しい遺跡ですが、巨大な庭園が確認され注目されています。現在、館祉は線引きで「大おもて」だけが表面表示されるのみですが、大友宗麟生誕500年になる2030(令和12)年を目途に、施設建物の復元など歴史公園として整備がなされるようです。(写真左上ー「大おもて」 南西側から 写真右上ー「大おもて」 南東側から 写真左ー「大おもて」 復元模型 写真左下ー復元茶室)
大友宗麟像
宗麟義鎮は最盛期、九州六ヶ国を制圧した武将です。
大友氏館 復元庭園
大友氏館庭園は平成10(1998)年の発掘調査により発見された巨大な庭園です。(写真左上・右) 庭園は巨岩の景石を配した池泉回遊式庭園で規模は東西83m×南北16mほど。庭園は池(東西67m×南北30m)、中島、景石、州浜、築山から構成され、戦国期の領主館に残る庭園としては最大規模。庭園は大友義長の代(15世紀後期)に構築され、宗麟・義統父子の代(16世紀中後期)に改修されたもの。現在、復元工事が終わり公開されています。
大友氏館 復元庭園
ー 動画 大友氏館を歩く ー