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三浦館は仙北平野の中央西部、小友川左岸の微高地に築かれた平城らしいです。菅江真澄の『月の出羽路』に「其地面東西三拾間南北五拾間、外堀四方に周回て障激の形也」と記され、規模は推定 東西50m×南北90mほど。濠で囲郭された単郭構造の方形館と推測されます。現在、館祉は耕地開墾・宅地化により消滅していますが、小友川を自然の濠に取り立てて築かれたものと思われます。
築城時期・築城主体ともに不明。館主 三浦氏は相模三浦氏を祖とし、三浦美作守 |
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は永禄ー元亀年間(1558−73年)頃まで最上氏に出仕していましたが、天正年間(1573−92年)初期 仙北郡に入封して小野寺氏に仕えたと伝えられます。美作はその後、治部少輔政重を名乗り、天正14(1586)年の「有屋峠の戦」で横手城主 小野寺氏方で出陣し、また角館城主 戸沢氏とも友好関係にあったと伝えられます。また慶長7(1602)年、佐竹入封後に勃発した「六郷一揆」で一揆鎮圧に尽力して佐竹氏から感状を受けています。その後、三浦氏は帰農しましたが、館は「戊辰戦争」まで存続し三浦氏の子孫が居住していたようです。 |