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大曲城は仙北平野の中央西寄り、丸子川右岸の微高地に築かれた平城ですが、規模・構造ともに不明。八幡土塁と呼ばれる東西に延びる土塁が大曲城の城郭遺構と伝えられます。土塁は下幅7−8m×天幅6m×高さ4−5mほど、八幡土塁を城南縁の土塁に想定すると北側の法久寺境内周辺が大曲城だったと思われます。
築城時期・築城主体ともに不明。一説に古代安倍氏の一族が拠したとも。また長禄2(1458)年から文明2(1470)年頃、仙北に侵攻した南 |
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部氏の代官 金沢右京亮の支配下に置かれ、被官の米内甚四朗(大曲和泉守)が在城したと伝えられます。その後、明応年間(1492−1501年)頃 小野寺氏に近い仙北の国人
前田氏が在城しましたが、天文元(1532)年頃 前田又左衛門通信は「由利十二頭」 赤尾津氏・羽川氏との戦で討死し、家督は次男の薩摩守利信が継承しました。天文年間(1532−55年)、利信は大曲に侵入した角館城主 戸沢氏の有力与力に組み込まれ、『信長公記』によると天正7(1579)年 利信は戸沢盛重の名代として織田信長に拝謁しています。しかし同10(1582)年、大曲城は赤尾津、羽川勢の急襲を受けて陥落し、利信は弟の神宮寺館主 神宮寺掃部を頼って落ち延びたと伝えられます。(『奥羽永慶軍記』) 同18(1590)年、大曲城は豊臣秀吉の発令した「戸沢領内三十五ヶ城」のひとつとして廃城。慶長6(1601)年、佐竹義宣が出羽国久保田に入封すると、大曲城は再興されて佐竹家家臣 梶原美濃守政景に預けられましたが、元和元(1615)年 「一国一城令」によりふたたび廃城となりました。 |
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「戸沢三十五城」 仙北の国人 前田氏の居館 |
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平城 |
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前田館 |
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八幡土塁? |
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場所はコノヘンらしいです |
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路上駐車 |
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平成24(2012)年6月2日 |
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大曲城は丸子川の北岸に築かれた平城ですが、遺構は宅地化等により消滅し、規模・構造ともに不明。(写真左上) でっ、唯一 大曲城の城郭遺構といわれているのが八幡土塁と呼ばれる東西土塁で、規模は下幅7−8m×天幅6m×高さ4−5mほど、約100mにわたって残存し、西端に八幡神社が祀られています。(写真右上ー東縁の土塁断面
写真左上ー土塁上 写真左下ー八幡神社) なお土塁の北側に法久寺が建てられていますが、この辺が中心だったのかも。(写真右下) |
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石造五重塔(写真左上) 寛政末ー享和初期頃、周辺の土中から掘り出されたもの。初層の月輪中央に梵字「アク・ア」が、両隣に「為虎王丸」「元亨三年七月五日敬白」と刻まれているようです。大曲城とは直接関係ありませんが、鎌倉末期 この地に鎌倉と関係の深い虎王丸なる領主が存在していたのでしょう。 (写真右上) 「城址標柱」 |
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