二 つ 山 城
島根県邑智郡邑南町永明寺
立地・構造
 二つ山城は出羽盆地の北西端、出羽川沿いの小谷鱒渕地区を見下ろす独立丘陵二つ山(標高530m 比高230m)に築かれた山城です。城の規模は東西400m×南北180mほど、城縄張りは東・西2ヶ所のピークに構築された東郭・西郭とその間の稜線尾根を加工した郭群からなる連郭構造の 二つ山城 現地説明板の図
現地説明板の図
山城で、二つのピークから派生した支尾根にも郭群が設けられています。規模は主郭に想定される東郭が60−70m四方、西郭が30−40m四方ほど、両 ピーク間の稜線には東から馬場舞鶴の段神明郭が敷設されています。このうち馬場が南麓からの大手導線が繋がる虎口郭に想定され、このため南側斜面には大手筋を防御する郭群・竪堀が施されています。城縄張り自体は段郭を基本とした古くシンプルなものですが、郭は比較的 大規模なもので恒常的な「日常居館」を含む館城と推測されます。

 二つ山城は貞応2(1223)年、出羽朝助が石見国「邑智郡」の支配拠点として築いたと伝えられます。出羽氏は治承4(1180)年の源頼朝の挙兵に加担した近江国「三上荘」の荘官 富永祐純が石見国邑智郡「久永荘」に流罪に処され、同地に土着したのが初源とされます。文治元(1185)年、平家が「壇の浦」で滅亡し、石見国守護職として鎌倉御家人 佐々木定綱が補任されると、祐純は定綱によって「久永荘」「出羽郷」の地頭職に取り立てられ、瑞穂・石見郷を支配して次第に勢力を拡大していきました。そしてこの頃、祐純の嫡子 朝助が二つ山城を築いたとされます。南北朝期、出羽氏は足利尊氏方(北朝)に加担して石見国内の南朝勢力と対峙しましたが、康安2(正平16 1361)年の弾正忠実祐の代に、備中高梁から邑智郡に転封した高橋師光・貞光父子と石見の在地領主 佐波氏に二つ山城を攻められ、実祐は討死し出羽氏の勢力は衰退させました。その後も実祐の嫡子 駿河守祐忠は高橋氏との領地紛争を繰り広げましたが、明徳3(1392)年 大内義弘の調停により高橋氏と和睦しています。戦国期、出羽氏は急速に勢力を拡大した安芸郡山城主 毛利治部少輔元就に接近し、享禄3(1530)年 元就が高橋興光を滅ぼすと出羽民部大輔祐盛は毛利と同盟を結び、同4(1531)年 二つ山城に復帰しました。そして祐盛のあとを継いだ下野守元祐は天文11(1542)年、大内義隆が起こした月山富田城攻め」に参陣し、また「厳島の戦」では毛利方として参陣しています。その後、元祐は毛利元就の六子 元倶を養子として迎えましたが、元倶が夭折したため出羽氏の家督は元祐の実子 出雲守元勝が継承しました。そして天正19(1591)年の元勝の代に出羽氏は出雲国頓原に転封となり、この際 二つ山城は廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
二つ山城 お蔵の段・神明郭間の堀切
メモ
奥石見の国人 出羽氏の館城
形態
山城
別名
・・・・・・・・・ 
遺構
郭(平場)・虎口・堀・畝状竪堀?
場所
場所はココです
駐車場
林道の突き当たりに専用駐車スペースあり
訪城日
平成18(2006)年3月17日
二つ山城は出羽盆地の北西端、永明寺地区背後の東・西二つのピークを中心に構築された山城です。(写真左上) 城へは南麓の永明寺から林道が敷設され、西郭の西側下まで車で登ることができます。で、林道突き当りの駐車場から山道を登ると泉水の段に辿り着きます。(写真右上) 泉水の段西郭の南西側の郭で規模は10−15m四方ほど、東側はお蔵の段に繋がっています。(写真左・左下) 西郭泉水の段・お蔵の段と5−6mの段で画され、規模は30−40m四方ほど。(写真右下)
西郭・東郭間は幅10−15mの尾根で繋がっています。でっ、お蔵の段神明郭間は幅10m×深さ3−4mの堀で切られ(写真左上)、稜線はその後 神明郭ー舞鶴の段と呼ばれる小郭に加工されています。(写真右上・右) 両郭の規模は10−15m四方ほど、1.5−2mの段で仕切られています。でっ、舞鶴の段の東側には馬場と呼ばれる長大な平場が設けられています。(写真左下) 規模は幅10−15m×長さ100mほど、南麓からの大手導線はここに繋がり、東郭・西郭に分岐していたと思われます。馬場の東側に比高差10mで雪隠の郭が隣接しています。(写真右下)
東郭(写真上)
城内最大の郭で規模は60−70m四方ほど、内部は東・西2段に削平されています。ま 〜〜〜、ここに出羽氏の日常居館・殿舎が想定されるのでしょう。
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