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福光城は福光川左岸の北西方向に延びた丘陵先端(標高100m 比高80m)に築かれた山城で、前面は福光川、東・西側には沢が切り込んだ急峻な断崖上に立地しています。城の規模は東西300m×南北100mほど、城縄張り |

福光城 概念図 |
は突端ピークに構築された主郭を中心に、北西方向に二の郭ー三の郭を階段状に配したシンプルな「一二三段」構造。規模は主郭が東西40m×南北30m、二の郭が東西40m×南北30m、三の郭が東西30m×南北20mほど。北西麓には福光城を「要害」とした「山麓居館」が設けられており、セットで築かれたものと推測されます。「山麓居館」の規模は東西70m×南北50mほど。大手筋は「山麓居館」からのルートが想定され、中腹部分には石積で築かれた番所祉が残っています。
築城時期・築城主体ともに不明。もともと石見の国人 福屋氏の庶流 福光氏が居住したと伝えられます。弘治2(1556)年、石見を攻略した郡山城主 毛利治部少輔元就は福光湊の支配・統治を吉川元春に委ねます。このため元春は石見吉川氏の吉川左近将監経安を福光城に配して福光湊と石見銀山を統治させ、以後 福光城には石見吉川氏の経安・式部少輔経家父子が居住しました。永禄4(1561)年、福光城は尼子方の福屋氏の攻撃に晒されましたが経安はこれを撃退し、また翌5(1562)年には尼子方の本城常光攻略で軍功を挙げています。天正年間(1573−92年)、西国に勢力の拡大を図る織田信長は毛利と対峙します。そして織田軍の中国方面の司令官
羽柴秀吉は天正9(1581)年、毛利に与した因幡国守護職 山名豊国の「鳥取城攻め」を本格化させました。このため豊国は秀吉侵攻の報せを受けて遁走しましたが、山名家臣団は鳥取城に籠り毛利に救援を求め、毛利は吉川経家を城将として派遣しました。鳥取城に入城した経家は籠城戦を決意して食糧の調達を図りましたが、食糧は秀吉によりすでに高値で買い占められていました。そして秀吉は鳥取城のある久松山を見下ろす本陣山に陣を張り、久松山を取り囲むように厳重に包囲網を敷きました。そして籠城4ヶ月、食糧の尽きた鳥取城は経家他山名氏重臣2名の切腹で開城となりました。慶長5(160)年の「関ヶ原」後、毛利氏は防長二州に押し込まれ、経家の子 経実は吉川本家の家老として岩国に同道し、この際 福光城は廃城になったものと思われます。 |