山 吹 城
島根県太田市大森町銀山
立地・構造
 山吹城は石見銀山・大森の街並みを望む独立丘陵 要害山(標高414m 比高250m)に築かれた山城です。城の規模は東西150m×南北250mほど、城縄張りはピークに構築された主郭を中心に北に4段、南に3段の段郭群を敷設したシンプルな階郭構造になっています。規模は主郭が東西30m×南北50m、北二の郭が東西60m×南北40m、北三の郭が東西70m×南北30m、南二の郭が東西60m×南北30m、南三の郭が東西80m×南北30m、南四の郭が東西100m×南北20mほど、各郭は高さ3−5mの段で仕切られています。大手筋は北東麓から北四の郭に繋がるルートが想定されていますが、導線上の北側稜線は急傾斜になっているため特に防御パーツは設
現地説明板の図
けられていないようです。北三の郭から北の二郭に繋がる虎口は石積で補強された平虎口、北二の郭から主郭へは坂虎口で繋がっています。また南郭群の南側斜面には扇状に20数条の畝状竪堀が穿たれ、山吹城の特徴になっています。この方向はかなり傾斜のキツイ斜面になっていますが、あきらかにこの方向を意識したものと思われます。城は比高240mの急斜面の高所に築かれ、城縄張りは段郭を基本とした古い形態の城ですが、山頂ピークからは銀山川に沿った小谷、石見銀山や遠く日本海に面した銀の積出湊 仁摩湊が眺望でき、一般的に言われる石見銀山と周辺のインフラを監視・統治する軍事拠点として築かれたものと推測されます。なお城縄張りは単調な構造になっていますが、畝状竪堀・石積などの城郭パーツ使用され、また南郭群には技巧的な導線構造が見られるなど、城郭自体は数度にわたり改修されたとものと推測されます。

 延慶2(1309)年に発見された石見銀山は、戦国期の大永6(1526)年 周防国守護職 大内氏に属した博多の豪商 神谷寿禎により日本で初めて銀製錬のハイテク技術「灰吹き法」が導入され、銀の産出量を大幅に飛躍させました。このため、石見銀山がもたらす利益を守備・統治する拠点として、山吹城は天文2(1533)年 大内義隆により築かれたと伝えられます。その後、石見銀山は大内・尼子・在地国衆 小笠原氏の争奪の場となり、大内義隆が横死した天文20(1551)年以降は福屋氏・佐波氏と結んだ安芸郡山城主 毛利治部少輔元就と、石見小笠原氏と結んだ尼子晴久との争奪地となりました。弘治2(1556)年、陶尾張守晴賢が「厳島」で毛利元就に敗れて自害すると、尼子晴久は石見に侵入し毛利勢を忍原で撃破して(「忍原崩れ」)、石見銀山の奪取に成功しました。そして晴久は山吹城主として石見の国衆 本城常光を入城させ、度重なる毛利氏の攻撃を封じましたが、永禄元(1558)年 毛利勢の攻撃を受ける温湯城救援のため石見に向かったものの失敗し、永禄3(1560)年 月山富田城で死去しました。晴久死去後、本城常光は毛利勢の攻撃を凌ぐものの尼子からの軍事援助が控えられると、永禄5(1562)年 毛利に降伏して石見銀山は毛利氏が領有することとなります。そして山吹城には吉川元春の被官 森脇市郎左衛門が配されました。慶長5(1600)年の「関ヶ原」後、毛利は防長二ヶ国に減封され、石見銀山は徳川幕府の直轄領(天領)となります。そして翌6(1601)年、初代代官の大久保長安が大森代官所を構え、この頃 山吹城は廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
山吹城 北二の郭虎口
メモ
石見銀山を守備する守護城
別名
石見銀山城
形態
山城
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・石積・堀・畝状竪堀群・移築城門
場所
場所はココです
駐車場
登り口に駐車スペースあり
訪城日
平成18(2006)年3月15日
山吹城は銀山地区の背後、通称 要害山に築かれた山城です。(写真左上) 写真ではわかりずらいですが、肉眼だと山頂周辺の段がハッキリ確認できます。でっ、城へは北東麓の登口から登山道が敷設され、登口に近い麓には休役所祉が見られます。(写真右上・左) 休役所は石積で構築された平場で、周囲に煙硝蔵・下屋敷等の地名が残っていることから「根小屋」が構えられていたと思われます。でっ、ヘイコラヘイコラを登り辿り着くのが北郭群になります。(写真下) 北郭群は4−5mの段で構築された4段の削平地からなり、単調な構造になっています。
北郭群の規模は北二の郭が東西60m×南北40m、北三の郭が東西70m×南北30mほど、まとまった平場になっています。(写真下) また北三の郭から北二の郭へ繋がる虎口は石積で構築された平入虎口(写真右)、北二の郭から主郭に繋がる虎口は坂虎口になっています。
主郭(写真左) 規模は東西30m×南北50mほど、石見銀山・大森町を一望にできる要地です。また遠く日本海も眺望できます。主郭の南側は横堀を敷設して南郭群と仕切っています。(写真左下・右下) 堀の規模は幅6−7m×深さ3−4mほど、塁線は主郭の南西端、南東隅までカバーし、木橋で結ばれていたと思われます。ま 〜〜〜 北側に比べて南側が緩斜面だったため、優位性を担保するため横堀を穿ったのでしょう。
 
南郭群も階段状の単調な構造になっていて規模は南二の郭が東西60m×南北30m、南三の郭が東西80m×南北30m、南四の郭が東西100m×南北20mほど、各郭は3−5mの段で仕切られ、南三の郭の東端に虎口を睨むように櫓台が築かれています。でっ、南四の郭からの導線は「折れ虎口」南三の郭に繋がり、その後は南二の郭・主郭の東側側面を通って北二の郭に繋がっています。(写真上・右ー南四の郭) また南側斜面は20数条の畝状竪堀群で潰され(写真左下)、さらに下の尾根筋は堀切で遮断されています。(写真右下)
(写真左上) 竪堀
(写真右上) 西本寺山門、山吹城追手門を移築したもの。藥医門形式の四脚門。
(写真左) 主郭から望む大森の街並み
(写真右下) 主郭から望む仁摩方向。仁摩湊は銀の搬出湊として栄え、大森からは銀山街道で繋がっていました。
「関ヶ原」後、石見銀山は徳川幕府の直轄地となり、大森代官所は慶長6(1601)年、代官 大久保長安により築かれたと伝えられます。(写真左上ー現在は石見銀山資料館) 石見銀山から産出された銀鉱石は仁摩・温泉津から積荷され、その輸送手段として銀山街道が整備されました。でっ、現在も銀山街道が狭いながら大森の基幹道路になっていて(写真右上・右)、道路沿いには趣のある街並みが残存しています。(写真左下ー熊谷家住宅・大森代官所の御用商人 写真右下ー高橋家住宅・銀山の町年寄、山組頭)
(写真左上) 福神山間歩、山師が個人所有した採掘抗「自分山」
(写真右上) 竜源寺間歩、江戸中期に開発された代官所直営の間歩 「御直山」のひとつ。
(写真左) 下河原吹屋(精錬所)祉、発掘調査で発見された17世紀初期の銀精錬所祉。当時、精錬所は「吹屋」と呼ばれていました。ここでは鉛を利用した「灰吹法」と呼ばれる精錬法で銀を取り出していました。
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