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荒沢館は由利平野の北東部、新沢地区背後(北側)の丘陵上に築かれた山城で(写真左上ー南側からの遠景)、城山の南東麓に八幡神社が祀られ(写真右上)、境内に史跡標柱が建てられ、この脇から山道が設けられています。(写真左) 山道は南側稜線に沿って設けられ(写真左下)、中腹の水道施設まではキッチリ整備されています。(写真右下ー水道施設) 現在の山道を往時の大手導線に想定するると、水道施設のある平場は前衛陣地のようなものだったのかも。 |
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水道施設から山道は明確ではありませんが、稜線尾根に残る踏み跡に沿って登ります。でっ、三の郭の手前で導線は南北に細長い平場の側面を通るように設定され(写真左上)、三の郭の虎口に繋がっています。(写真右上) 三の郭に辿り着いたところ、以前あった雑木林は刈られ、たいへん見やすくなっているのですが ・・・・・。(写真右ー三の郭から主郭方向) |
三の郭(写真左下) 規模は東西40−50m×南北100mほど、以前 徘徊したときは雑木林だったため明瞭ではありませんでしが(写真右下)、ケッコウな平場だったようです。 |
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二の郭・三の郭間を分断した堀は幅7−8m×深さ4−5mほど(写真左上ー13年現在 写真右上ー07年当時)、堀底は二の郭の西側に廻り込む帯郭に変化し(写真左・左下ー13年現在 写真右下ー07年当時)、さらに帯郭は連続畝堀で切り刻まれています。実は秋田県の中世城館で畝状竪堀が明確に見られる地域というのは限定されていて、特に集中しているのが小野寺領の県南部と由利郡です。たぶんこの地域というのが秋田県内でもっとも軍事緊張のあった地域と思われ、この遺構自体は戦国末期頃のものなのでしょう。 |
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(写真左上・右上) 二の郭西側斜面の連続竪堀 |
二の郭(写真右) 規模は東西30m×南北100mほど、こちらも広大な平場になっていて雑木は刈られています。三の郭から二の郭へは東側に設けられた土橋⇒坂虎口で繋がり、導線に二の郭側から横矢がかかる構造になっています。(写真左下) また二の郭から主郭方向へは稜線を削り込んだ幅広の土橋状の通路で繋がり、土橋の西縁に土塁が築かれています。(写真右下) |
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土橋を渡ったあと、導線は斜面をクランクするように設定され(写真左上・右上)、主郭の南西端に設けられた大型の桝形虎口に繋がっています。桝形の規模は10−15m四方ほど、導線に物見郭から横矢がかかります。(写真左ー物見郭から見た桝形虎口) |
主郭(写真左下・右下) 規模は東西100m×南北50mほど、内部は高さ1.5−2mの段差で区画された東西の2郭からなります。(写真左下ー西側 写真右下ー東側) でっ、南側下は3−4m切り落とした犬走りで処理され、また東側に延びた稜線は段郭群に加工されています。 |
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(写真左上) 主郭東西の段差 |
(写真右上) 主郭南側の犬走り、幅2m前後 |
(写真右) 主郭東側の段郭群 |
(写真左下) 主郭東から西方向 |
(写真右下) 主郭・物見郭間の切岸 |
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物見郭(写真左上) 規模は20−25m四方ほど、西縁に下幅5−10m×高さ2mの2段構造の土塁が築かれています。(写真右上) 周囲は最大高10mの切岸に加工され(写真左)、南西側下に大手導線を睨むように腰郭が1段
敷設されています。(写真左下・右下) また西側下は10m切り落として腰郭に加工され、部分的に土塁が築かれています。でっ、土塁の外側(西側)は堀切で遮断されていますが、土塁の南端に虎口が設けられていて、ここから西側稜線に繋がっています。 |
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(写真左上) 物見郭西側の切岸、高さ10mあり |
(写真右上) 物見郭西側下の腰郭、北側の西縁に土塁が築かれ横堀状になっています。 |
(写真右) 物見郭西側の切岸 |
(写真左下) 腰郭西側の堀切、幅7−8m×深さ4−5mほど |
(写真右下) 堀切西側の平場? |
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