大 洲 城
愛媛県大洲市大洲
立地・構造
 大洲城は肱川中流域の左岸、肱川に突き出した丘陵上(比高30m)に築かれた平山城です。規模は東西48m×南北500mほど、城縄張りは北端の丘陵上に本丸を置き、本丸の西ー南側に二の丸を設け、さらに二の丸の西ー南側を三の丸がカバーする梯郭構造で構築され、各郭間は堀で仕切られていました。各郭の規模は本丸が東西110m×南北40m、二の丸が東西280m×南北220m、三の丸が東西330m×南北500mほど。城への虎口は三の丸北東端に東門が、南端に西門が設けられ、このうち東門が大手だったようです。大手導線は東外濠にかけられた土橋を渡り、桝形構造の東門を経て二の丸大手門に繋がっていました。本丸には天

正保 伊予国大洲之絵図
守、台所櫓、高欄櫓が構えられ 南縁中央に暗り門が設けられ、また西側に井戸郭が敷設されていました。二の丸には藩の政庁施設、藩主の表御殿、奥御殿が敷設されていました。往時、城内に天守のほか十八基の櫓が構えられ、現在 天守が復元され、三基の櫓が現存しています。 なお大洲城下は城の東側に設けられていました。

 大洲城は鎌倉末期、伊予国守護職 宇都宮豊房により築かれたと伝えられます。豊房は下毛野国造家の裔 下野宇都宮氏の庶子家 豊前宇都宮頼房の次子(三子とも)とされ 元徳2(1330)年、伊予国守護職に補任されて伊予国喜多郡に入部し大洲城を築いたとされます。そして豊房は南北朝期、伊予の北朝勢力として活動し、豊前宇都宮三河守貞泰の次男(四子とも) 遠江守宗泰を養嗣子としました。その後、伊予宇都宮氏は泰輔ー家綱ー安綱ー宣綱ー清綱ー豊綱と続き(年数に比べて当主の数が少ないような ・・・・・)、この間の室町ー戦国期 伊予宇都宮氏は伊予西園寺氏、豊後大友氏、土佐一条氏と対峙しました。最後の当主 遠江守豊綱は土佐一条氏と結んで伊予西園寺氏と対峙し、弘治2(1556)年 西園寺左近衛少将実充の嗣子 公高を討ち取っています。永禄年間(1558−70年)、河野左京大夫通宣が毛利と従属的な同盟を結び、永禄11(1568)年 宇都宮領への侵攻を開始します。このため豊綱は土佐の一条兼定に救援を要請し、豊綱は河野・毛利勢と対峙しましたが、(いくさ)は河野・毛利勢の勝利で終結し、豊綱は降伏して大洲城は開城されました。(「鳥坂峠の戦」) 宇都宮氏滅亡後、大洲城は長曾我部元親に通じた豊綱の娘婿 大野直之の属城となりましたが、天正13(1585)年 羽柴秀吉による「四国の役」が開始されると大洲城は小早川隆景勢の攻撃を受けて陥落します。戦後、伊予は隆景に宛がわれ、大洲城に家臣が据えられたと思われます。しかし天正14(1586)年の「九州の役」後、隆景は筑前・筑後へ所替され、代わって戸田民部少輔勝隆が大洲城に入城します。文禄3(1594)年、勝隆は嗣子なく死去し、大洲戸田家が無嗣改易になると、大洲領は宇和島城主 藤堂和泉守高虎に宛がわれ、高虎の養子 宮内少輔高吉が大洲城に据えられました。慶長13(1608)年、藤堂高虎が伊勢・伊賀に移封されると、代わって脇坂淡路守安治が淡路国洲本から大洲に入封します。そして元和3(1617)年、脇坂淡路守安元が信濃国飯田に転封になると 伯耆国米子から加藤左衛門尉貞泰が大洲に入封し、加藤氏が「明治維新」まで大洲城に在城しました。明治6(1873)年、太政官達 「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」により廃城。
歴史・沿革
大洲城 復元天守
メモ
中世 ー 伊予国守護職 宇都宮氏の館城
近世 ー 大洲脇坂氏、大洲加藤藩の藩庁
形態
平山城
別名
比志城・地蔵ヶ嶽城・大津城
遺構
郭(平場)・虎口 門祉・復元天守・現存櫓・堀・井戸祉・石垣
場所
場所はココです
駐車場
観光駐車場あり
訪城日
令和4(2022)年10月14日
大洲城 遠景
大洲城は大洲市街地の中央部、肱川左岸の丘陵上に築かれた平山城です。(写真左上ー北東側からの遠景) でっ、管理人は東外濠から土橋を渡り 桝形構造の東門(大手門)から三の丸に入ります。(写真右上ー東外濠祉・現在 車道 写真右下ー東門祉・遺構はなし) なお東門は一の門が高麗門、二の門が櫓門だったようです。*あくまで左図によるシミュレーションです
また三の丸本丸ー二の丸の西ー南側をカバーし 規模は東西330m×南北500mほど、往時 ここは上級家臣の屋敷地だったようですが、現在 住宅地・商業地・公的施設の敷地になっています。
でっ、管理人は東門祉から西進し、二の丸一の門(藥医門)を通り二の丸に入ります。(写真左上ー遺構なし) その後、導線は内濠にかかった土橋を渡り、桝形構造の二の丸二の門(櫓下御門)を経て、本丸方向に繋がっていました。(写真右上ー二の門桝形 写真左下ー二の丸から本丸方向) *あくまで右図によるシミュレーションです
二の丸(写真右下) 本丸の西ー南側をカバーし、規模は東西280m×南北220mほど、往時 藩庁施設や表御殿、奥御殿が構えられていたようです。でっ、北西隅に北の丸が設けられ、玉櫓や鉄砲櫓が構えられていました。
(写真左上) 北の丸の玉櫓祉
本丸の西下段に井戸郭が設けられ、ここに径3−4mの井戸が残存しています。(写真右上) でっ、井戸郭から本丸へは暗り門で繋がっていました。(写真左下) 暗り門は正面に石垣を設けて、導線を左方向(台所櫓方向)にクランクさせ、クランク部分の上部を渡櫓で覆うことで「暗り」を作り出したもの。
本丸(写真右下) 規模は東西110m×南北40mほど、内部に四層四階の天守が復元され、台所櫓、高欄櫓が残存しています。大洲城を初めて訪れた40年前、こんなんじゃなかったよな〜〜〜。
大洲城 本丸暗り門
大洲城 本丸天守 大洲城 本丸天守
本丸天守は本丸の北西隅に建設され、東に台所櫓が、南に高欄櫓が配置され渡櫓で繋がっていたようです。(写真左上ー北西側からの近景 写真右上ー西側からの近景 写真右ー南西側からの近景 写真左下ー東側からの近景 写真右下ー南東側からの近景) 現天守は明治期に撮影された写真画像や江戸期の天守雛形を参考に平成16(2004)年、ほぼ正確に復元されたもの。また台所櫓は安政5(1859)年、高欄櫓は安政6(1860)年の再建らしいです。
大洲城 本丸天守
大洲城 本丸天守 大洲城 本丸天守
(写真左上・右上) 石落とし
 
(写真左) 鉄砲狭間
 
(写真左下) 鯱のレプリカ
 
(写真右下) 西側の二重濠
 
ー 動画 大洲城を歩く ー