寒 河 江 城
山形県寒河江市丸内
立地・構造
寒河江城
は最上川と寒河江川に挟まれた河岸段丘上に築かれた平城で、
主郭
を
二の郭・三の郭
で囲郭したシンプルな輪郭構造の城館です。規模は
主郭
が東西110m×南北160m、
二の郭
が東西250m×南北330m、
三の郭
が東西400m×南北550mほど、各郭間は土塁(消滅しているため規模不明)と幅10−15mの濠で区画されていたと推測されます。現在、
主郭
は寒河江小学校校地となり遺構等は残存しませんが、周囲の道路は往時の道路(あるいは濠)を履修したものと推測され、部分的に濠の名残と思われる用水堰が見られます。なお
寒河江城
は築城当初、単郭プランの単郭構造の方形館だったと思われますが、後に
二の郭・三の郭
を拡張整備したものと思われます。
文治5(1189)年の
「奥州藤原討伐」
、さらに鎌倉幕府の開府に尽力した大江兵庫頭広元は出羽国
現地説明板の図
「長井荘」「寒河江荘」
の地頭職に任ぜられ、嫡男の右近衛将監親広に
「寒河江荘」
の地頭職を相続させます。六波羅で
「京都守護」
に任じられていた親広は、承久3(1221)年に勃発した
「承久の乱」
で後鳥羽上皇方に加担しましたが敗北を喫し、このため
「寒河江荘」
に逃れて蟄居したと伝えられます。乱後、
「寒河江荘」
の北半分は北条家の所領となりましたが、親広の嫡子 左近将監
佐房
(
すけふさ
)
が幕府軍に加担していたため寒河江大江氏は改易されず、家督は木工助広
時ー少輔助太郎政広に受け継がれました。そしてこの間、幕府内部では執権 北条得宗家の専制体制が着々と進み、有力な御家人(三浦氏、安達氏等)が次々と粛清されたため、政争に嫌気をさした政広の嫡子 右京亮元顕は鎌倉末期頃、鎌倉を離れて
「寒河江荘」
へ下向し
本楯
に拠したとされます。南北朝期、大江氏は後醍醐天皇の
「建武政権」
を支持し、さらに足利尊氏が
「建武政権」
に反旗を翻した後も、終始 出羽の南朝勢力に与しました。延文元(1356)年、室町幕府は出羽国の南朝勢力(大江氏・白鳥氏等)に対する抑えとして、斯波式部丞兼頼を
出羽按察使
に任じ山形に入部させます。このため大江上総介時茂は斯波兼頼と最上川を挟んで対峙し、
貞治6
(
正平23
)
(1367)年 越後の南朝勢力が武力蜂起するとこれに呼応しましたが、
「漆川の戦」
で寒河江大江一族は壊滅的な敗北を喫します。そして文中2(1373)年、時茂のあとを継いだ四男の大蔵少輔時氏は
「鎌倉府」
に和を乞い所領を安堵されました。この時氏の代に大江氏は寒河江姓に改姓し、
寒河江城
を築いたと伝えられます。以後、寒河江氏は庶子家を柴橋、君田、
左沢
、
溝延
、
荻袋
、高屋、
白岩
、
高松
等に分知して最上川西岸を惣領支配し、
山形城
主
斯波
(
最上
)
氏に対抗しました。明徳3(1392)年、
「南北朝合一」
により寒河江氏は
「鎌倉府」
の支配下に組み込まれましたが、このため置賜郡に勢力を拡大し
「鎌倉府」
と対立関係にあった陸奥
梁川城
主 伊達氏と対峙することとなります。文明11(1479)年、伊達兵部少輔成宗は桑折播磨を大将に寒河江領に侵入しましたが、寒河江勢により撃退されます。さらに翌年、伊達勢はふたたび
寒河江
領に侵攻しましたが、
「菖蒲沼の戦」
でふたたび敗北を喫します。伊達軍の村山侵攻を2度にわたり阻止した寒河江氏でしたが、この頃から寒河江氏の惣領統治は崩れ家中で内紛が頻発し、永正元(1504)年 寒河江氏の家督争いに乗じて
山形城
主 最上修理大夫義定は
寒河江
領に侵攻しました。しかし最上勢は白岩満教(
白岩城
主)、左沢満政(
左沢城
主)等の寒河江勢に撃退され、翌2(1505)年 幼少の孝広が家督を継ぐと寒河江氏は最上氏と和議を結び関係を修復します。同11(1514)年、伊達左京大夫稙宗が最上領に侵攻すると寒河江氏は最上支援のため
長谷堂城
に出陣します。しかし
「
長谷堂城
の戦」
は伊達勢の勝利で終結し、寒河江氏は敗北を喫した最上義定とともに伊達氏の影響下に置かれました。永正17(1520)年、義定が死去すると伊達氏の最上領国化が強化され、このため村山の在地国衆はこれに反発し、寒河江氏もこれに同調しましたが
「寒河江荘」
が伊達勢の侵攻を受けたため寒河江氏は降伏を余儀なくされました。天文11(1542)年に勃発した
「天文 伊達の乱」
が長期化すると伊達氏の求心力は低下し、寒河江氏は最上氏等とともに伊達統治から離脱します。天正3(1575)年、最上出羽守義光が最上家の家督を相続すると、義光は北村山から最上郡を侵略して領国化を推し進め、同9(1581)年 庄内
尾浦城
主
武藤
(
大宝寺
)
出羽守義氏と衝突します。そして同11(1583)年、義光は武藤氏の家臣
前森蔵人
(
東禅寺筑前守義長
)
を内応させて武藤義氏を攻撃させます。このため武藤氏と縁戚関係にあった寒河江少輔太郎高基は義氏救援のため庄内に派兵しましたが、義氏が自害したため退却を余儀なくされました。庄内を支配下に置いた義光は同12(1584)年、最上川西岸の侵略に動き、婚姻関係を結んだ
谷地城
主 白鳥十郎長久を
山形城
に招いて謀殺します。そして最上勢は最上川を渡って白鳥領に侵攻し
谷地城
を攻撃します。このため白鳥氏と同盟関係にあった寒河江氏は白鳥氏の救援に動きましたが
谷地城
は陥落。さらに最上勢は
寒河江城
攻城に動き、寒河江勢と対峙しましたが、寒河江一族の足並みは揃わず、このため寒河江高基は領内貫見に遁れて自害しました。寒河江嫡流滅亡後、
寒河江
領は義光の直轄領となりましたが、文禄年間(1592−96年) 嫡男の修理大夫義康に与えられ、慶長5(1600)年の
「慶長出羽合戦」
では荘内上杉勢の攻撃を受けています。その後、慶長7(1602)年頃
寒河江
領は義康の次弟 左馬助家親に与えられ、慶長15(1610)年頃 家親が
山形
に拠を移すと寒河江氏旧臣の寒河江肥前守光俊が
寒河江城
主となりました。しかし慶長19(1614)年、義光が死去すると光俊はこれに殉死し、このため
寒河江
領は最上氏の直轄地となりました。元和8(1622)年、
「最上騒動」
により最上氏は改易となり、この際
寒河江城
は廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
寒河江城 三の郭の辰巳門(現澄江寺山門)
メモ
寒河江大江氏の本城
形態
平城
遺構
移築城門
場所
場所は
ココ
です
駐車場
路上駐車
訪城日
平成20(2008)年7月16日
現在、
寒河江城
の
主郭
は寒河江小学校校地となり遺構等は残存しませんが、周囲の道路は往時の濠・道路を踏襲したものと推測され、部分的に濠の名残と思われる用水堰が見られます。でっ、城址碑(写真左上)は現地案内板によると
三の郭
の西側に位置するようですが、距離的に
主郭・二の郭
間の濠、あるいは
二の郭
あたりと思われます。
(写真右上)
主郭
南側の濠あたりか?
(写真左)
二の郭
東側の濠の名残か?
澄江寺山門
澄江寺は寒河江大江氏十三代知広が開基したとされ、山門は
寒河江城
の三の郭辰巳門(南東)を江戸初期 移築したものと伝わります。
大江氏墓碑(長岡観音)
長岡観音(長念寺)は寒河江大江氏初代親広が長岡山に開基し、後に
寒河江城
の
三の郭
に祈願所として移築されました。