談 山 神 社
奈良県桜井市多武峰
 談山神社は桜井市多武峰に鎮座する神社で、明治初年の「廃仏毀釈」以前は「多武峯 妙楽寺」を号する神仏習合の宗教施設でした。『多武峰縁起』によると創建は天武天皇7(678)年、僧 定慧(じょうえ)が父 藤原鎌足の遺骨を摂津国安威(阿武山古墳)からこの地に移して墓の上に十三重塔を建立したことを初源とし、同9(680)年 講堂(現 神廟拝所)を創建して十三重塔を神廟とした妙楽寺を称したとされます。そして大宝元(701)年、十三重塔の東側に鎌足の木像(大織冠尊像)を安置した祠堂(現 本殿)が建立され聖霊院と呼ばれ、延長4(926)年には惣社を創建して「談山権現」の勅号を賜り、これにより 妙楽寺聖霊院惣社は神仏習合して一体化していきました。天暦10(956)年、妙楽寺が比叡山延暦寺の末寺に組み込まれ天台宗寺院になると、妙楽寺と藤原氏の氏寺 法相宗興福寺、藤原氏の氏神 春日大社との対立が顕在化し、このため妙楽寺は永保元(1081)年、天仁元(1108)年、承安3(1173)年の3度にわたって興福寺の僧兵に焼き討ちされ堂塔伽藍は焼失しました。その後も妙楽寺と興福寺の対立は続き、南北朝ー室町期には大和国人衆の対立に巻き込まれ、永享10(1438)年 妙楽寺は幕府軍によって焼き討ちされました。(「大和永享の乱」) さらに永正3(1506)年、幕府管領 細川政元が被官の赤沢朝経を大和に派兵すると妙楽寺「大和国人一揆」の拠点のひとつになったため赤沢勢に焼き討ちされています。天正13(1585)年、畿内を制圧した羽柴秀吉は妙楽寺郡山城下への移動を命じ、このため妙楽寺は翌14(1586)年、郡山へ移り多武峰の堂宇は破却されました。しかし多武峰衆徒からは帰山運動が起こり、また秀吉の弟 大和大納言秀長の病が重くなったため、天正18(1590)年 妙楽寺は多武峰への帰山を許されました。江戸期になると妙楽寺は幕府から三千石の朱印領を認められました。明治2(1869)年、「明治政府」の発効した「神仏分離令」により妙楽寺では廃仏毀釈が行われ妙楽寺は廃され、談山神社に改称されました。なお妙楽寺の堂宇は聖霊院→本殿、護国院→拝殿、十三重塔→神廟、講堂→神廟拝所、常行三昧堂→権殿、護摩堂→祓殿に利用されています。(場所はココです)
鳥居 
参道 
神廟拝所 
寛文8(1668)年に再建された妙楽寺の旧講堂。御本尊の阿弥陀三尊像は明治初年の廃仏毀釈により安倍文殊院に移されました。国の重要文化財。
総社拝殿 
寛文8(1668)年に建立された妙楽寺の旧護国院。国の重要文化財。
権殿 
永正年間(1504-21年)に再建された妙楽寺の旧常行三昧堂。国の重要文化財。
十三重塔 
藤原鎌足を弔うため建立された神廟。現在の塔は享禄5(1532)年の再建。現存する世界唯一の木造十三重塔で国の重要文化財。
楼門 
永正17(1520)年の再建、国の重要文化財。
拝殿 
永正17(1520)年に再建された妙楽寺の旧聖霊院の拝所。国の重要文化財。
拝殿内部 
東殿 
元和5(1619)年に造替され、寛文8(1668)年 現在地に移築された妙楽寺の旧本願堂。現在は鏡女王、定慧、藤原不比等を主祭神とした恋神社。国の重要文化財。
厄割石 
東大門 
多武峰に繋がる谷口に設けられた妙楽寺の東大門。もともとは妙楽寺護国院の惣門とされます。間口 十五尺(4.65m)半×棟高 二十一(6.3m)尺の高麗門。門の両端は木柵列を設けて谷口を塞ぎ、参道は屋形橋をわたり東大門を経て妙楽寺に繋がっていました。(場所はココです)
屋形橋 
摩尼輪塔 
塔身正面に「妙覚究竟摩尼輪」「乾元二(1303年)年癸卯五月日立之」の銘が刻まれた石塔。高さ315cm。摩尼とは仏教において霊験を表すとされる宝珠のこと。正面上部には梵字の種子 「大日如(アーク)来」が刻まれています。
後醍醐天皇御寄進の石灯籠 
高さ267.5cmの花崗岩製の六角型石燈籠。円柱の中節部分に「元徳三年(1331年)の銘があり、鎌倉後期の作とされます。