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三戸城は三戸盆地中央部の独立丘陵に築かれた山城で、東側を流れる馬淵川と西側を流れる熊原川を自然の濠としています。(写真左上・右上) 大手は南西麓の「在府小路」(写真左)に構えられた下馬御門から城道が設定されていたようですが、現在は車道が主郭まで敷設されていて楽に登ることができます。城好きな方には、当然歩いて登ることをお奨めします。(写真左下ー登口) |
三戸代官所祉(写真右下)
寛永10(1633)年、盛岡城が完成すると三戸城には城代が置かれましたが、貞亨年間(1684〜87年) 三戸城は廃城となり代わって城下に三戸代官所が置かれました。 |
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物見櫓(写真左上)
三戸城の南東先端 通称 「ベコの鼻」に位置し、南東ー北西の眺望に優れています。 |
復元 綱御門(写真右上・右)
三戸城の大手門で桝形構造になっています。門の両脇は石垣で補強され、さらに隣接した高さ6−7mの城壁も石積で普請されています。綱御門の内部は武者溜と呼ばれる平場になっています。(写真左下) |
鳩御門(写真右下)
武者溜から比高7−8mの切岸に切り込むように普請された桝形虎口。 |
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鳩御門から「南部利康屋敷」までは南部氏の重臣 目時筑前守(目時館主)、桜庭安房守(赤石城主)、北左衛門佐(剣吉城主)、東彦左衛門(上名久井館主)、石亀七左衛門(石亀館主)の屋敷地が階段状に配置されています。(写真左上ー桜庭安房守屋敷 写真右上ー北左衛門佐屋敷 写真左ー東彦左衛門屋敷)でっ、この屋敷地から「南部利康屋敷」へは現在、糠部神社の参道でまっすぐ入ることができますが、本来は欅御門と呼ばれる桝形虎口で繋がっていたようです。(写真左下) でっ、欅御門から入った部分が石井伊賀守屋敷(甲州譜代)になります。(写真右下) |
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「南部利康屋敷」(写真左上)
実質的な二の郭に想定される広大な郭(東西160m×南北120m)で、内部には主郭(「淡路丸」)にあったとされる御三階と呼ばれる隅櫓を模した模擬天守が建てられ(写真右上)、糠部神社が祀られています。(写真右) でっ、主郭とは分厚い土塁で区画され大御門と呼ばれる虎口で結ばれています。土塁は部分的に残存していますが虎口は消滅し(写真左下)、土塁の北側の延長線に堀が残っています。(写真右下) |
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主郭(写真左上 「淡路丸」)
駐車場や公園整備で、どこまでが郭の範囲なのかわからないくらい、相当 改変されています。規模は推定 東西120m×南北220mほど。内部には主殿・御奥・千畳敷・大書院・御金蔵等の施設が置かれていたと伝えられます。西側下に「谷丸」が敷設され(写真右上)、穴御門で主郭と繋がっていました。(写真左下) また内部には水の手と思われる大清水があったようです。(写真左) また北側下に「淡路郭」(下段)が配置されていました。(写真右下) |
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主郭(「淡路丸」)の北から北東側にかけては腰郭が1段 敷設され、現在は亀池・鶴池等の湧水地があります。(郭名不詳) ここには上段御馬屋が置かれ搦手方向に繋がる木戸口になっていました。(写真左上) |
奥瀬与七郎屋敷(写真右上)
三戸城の北端に位置し、北方向の眺望に優れています。平場先端からは南部氏が三戸城に移る前の本拠地 聖寿寺館、平ヶ崎館等を望むことができ(写真右)、また鍛冶屋御門からの搦手ルートを監視する要地です。 |
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鍛冶屋御門(写真左上・右上)
三戸城の搦手虎口で、桝形構造になっています。木戸は石積で補強されていたようですが ・・・・・・・・、来るたびに崩落がひどくなっているような ・・・・・・・・ なんとかしてもらいたいものですが。 |
城下六日町の法泉寺の山門は、三戸城の搦手御門を移築したものと伝わります。門は薬医門形式で唐破風屋根になっています。(写真左) |
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