利 神 城
兵庫県佐用郡佐用町平福
立地・構造
 利神城は佐用川の中流域、左岸の丘陵ピーク(利神山 標高373m 比高240m)に築かれた山城です。城の規模は東西200m×南北300mほど、城縄張りは頂部ピークに構築された主郭を中心に南東側ー南西側に馬蹄状に延びた稜線に展開され、南東側稜線に二の郭馬場が、南西側稜線に三の郭が配されて 利神城図
います。主郭の規模は30m四方ほど、北側に天守台が構えられ、往時 三重の天守がそびえていました。また三の郭以上の中枢部はほぼ100%石垣で構築され、どちらかというと「見せる要素」がたぶんにあったものと思われます。大手筋は西麓に構えられた日常居館(「根小屋」)から南西側稜線を辿るルートが想定されます。規模は比較的 小規模ですが、石垣を多用した山城の一類型として完成度の高い必見の城郭です。なお西麓に城主居館が構えられていました。

 利神城は南北朝期の貞和5(1349)年頃、赤松氏の一族 別所敦範により築かれたとされ、以後 別所氏は赤松一族として敵対する山名と対峙し、利神城「因幡街道」を抑える経済・軍事上の重要拠点として機能したと推測されます。天正6(1578)年、三木城主 別所長治が羽柴秀吉に叛旗を翻すと、利神城主 別所林治が長治に従ったため、利神城上月城に在城した尼子勝久・山中鹿之助に攻められ陥落しました。慶長5(1600)年の「関ヶ原」後、姫路城に入城した池田武蔵守輝政は甥の出羽守由之に三万石を与えて利神城に配し佐用郡を支配させました。現在、見られる遺構はこの由之時代に改修されたものと推測されています。そして慶長12(1607)年、由之は下津井城代として転封し、元和元(1615)年 輝政の七男 右近大夫輝興が平福に入封しましたが、寛永8(1631)年 赤穂城へ転封となり、利神城は廃城となりました。その後、平福に旗本 松井松平氏が五千石を支配する陣屋を構え「明治維新」を迎えました。
歴史・沿革
利神城 三の郭から主郭方向を望む
メモ
中世 ー 赤松氏の庶流 別所氏の「要害」
近世初期 ー 姫路池田藩の支城
形態
山城
別名
雲突城・平福城 
遺構
郭(平場)・天守台・石垣・虎口・桝形・堀
場所
場所はココです
駐車場
「道の駅平福の」駐車場 OR 智頭急行鉄道「平福」駅駐車場
訪城日
 昭和60(1985)年9月6日 平成19(2007)年3月29日
利神城は近世の宿場町「平福宿」の東方、智頭急行平福駅背後の丘陵上に築かれた山城です。(写真左上ー南西側からの遠景) でっ、城へはいくつか登山ルートがあるようですが、管理人は平福駅から案内板に従って南西麓の登口に進みました。(写真右上ー登り口) 登口には石垣が見られますが、いつのものかは不明。でっ、登山道はつずらおれの山道になっていて尾根に繋がっています。(写真左) 尾根に辿り着くと堀切のようなものが見られますが、城郭遺構かは不明(写真左下)、ここから少し進むと岩屋のようなものがあります。(写真右下ー現地案内では天王神社)
前述の堀切からの登山道は途中、部分的に急斜面があるものの、安定した快適な尾根道になっていて(写真左上)、しばらく登ると小ピークを加工した平場に辿り着きます。(写真右上ー物見砦か?) でっ、このピークからは「因幡街道」の大原方向が一望にでき(写真右)、また利神城主要部がまじかに眺望できます。(写真左下) でっ、小ピークからの尾根道は三の郭の手前で消滅し、このため三の郭までは約20mほど直登を余儀なくされました。(写真右下)
(写真左上) 三の郭から主郭方向。中央が主郭、右側が二の郭、左側が大阪丸
三の郭(写真右上) 規模は東西20m×南北60mほど。西側中央に石垣造の虎口が設けられ(写真左)、ここからスロープ状に現在の登山道に繋がっていたと思われます。
主郭から南東側稜線に二の郭が設けられ、側面は一部 崩落しているものの、石垣が100m以上にわたり高さ10m前後、残存しています。(写真左下) でっ、三の郭から二の郭までは急斜面を坂虎口で繋がっていたと思われ、側面の石積は完全に崩落しています。(写真右下)
でっ、管理人は身の危険を感じながら三の郭から二の郭へ登りました。(写真左上ー二の郭から三の郭方向) 両郭間の高低差は20mほど。
鴉丸(写真右上) 主郭の北東から南東側をカバーした郭で規模は東西20m×南北60mほど。
主郭(写真右) 規模は30m四方ほど。北側の張り出し部分は高さ7−8m、東・西側は3mの石垣で補強されています。北縁に構築された天守台には三重の天守が構えられていたとされ(写真左下)、天守台の虎口は桝形構造になっています。(写真右下)
(写真左上) 「因幡街道」の通る平福宿」
(写真右上) 佐用方向
主郭の虎口は主郭の南東側に位置し、明確な桝形構造。(写真左) ここから二の郭へはスロープ状の導線で繋がっています。また西側にも大阪丸に繋がる虎口が設けられています。(写真左下)
二の郭側の稜線尾根には堀切?が見られます。(写真右下) 撮影地からの距離から想定して、かなり巨大な堀切(自然地形?鞍部?)と思われます。
山麓の城主居館祉
利神城の西麓には佐用川と利神城に挟まれた狭い空間に池田氏時代の日常居館があったとされます。居館の規模は家臣屋敷地を含め南北340m×東西120mほど。(写真左上ー城主居館の虎口と推測される石垣 写真右上ー家臣屋敷地は城主居館の南側にあったとされます。写真は家臣屋敷地南側の石垣土塁で、外側には水濠があったようです) (場所はココです)
ー 因 幡 街 道 の 宿 場 町 ・ 平 福 ー
宿場町「平福」は播磨・美作の「境目」に位置する街村で、中央を通る「因幡街道」は平福から大原ー粟倉ー智頭を通って鳥取に繋がっています。(写真左上) でっ、宿場内には宿場町特有の曲折(一種の桝形)が見られ(写真右上)、また町屋裏には佐用川に沿って土蔵群や川座敷、舟運に利用したと思われる川門が見られます。(写真左)
(写真左下) 宿場内に残る本陣祉
(写真右下) 智頭急行鉄道智頭線、本来は国鉄時代に計画されましたが、国鉄民営化により建設が断念され、第三セクターとして開業。前回来た時(昭和60 1985年)は鉄路はあるものの車両は走っていませんでした。
平福陣屋(写真左上・右上)
平福陣屋利神城廃城後、松井松平五千石の旗本領を支配する代官所として構築されました。現在の陣屋門は元治元(1864)年、代官 佐々木平八郎により建築されたもの。
秋田の中世を歩く