払 田 柵
秋田県大仙市(旧仙北町)仙北町払田
立地・構造
 払田柵は仙北平野の中央東寄り、矢島川南岸の独立丘陵上(真山、長森 標高52−65m)に築かれた古代官衙施設で、仙北平野を眺望できる高所に位置します。全体の規模は東西1350m×南北720mほど、内部は丘陵上に構築された政庁域(内郭)政庁域を囲った外郭、さらに丘陵を囲った外柵からなります。外柵ラインは角材柵列で構築され東、西、南、北に外柵門が設けられていました。また外郭ラインは丘陵を囲うように築地柵列で構築され、東、西、南、北の丘陵際に門が構えられていました。丘陵中央部に構築された政庁域(内郭)は板塀で区画された方形のブロックで、規模は東西60m×南北80mほど、内部に政庁正

政庁域(内郭)復元図
殿が南向きに構えられ、南側に西脇殿、東脇殿がコの字状に配置され、北側(後方)に東後殿・、西後殿が配置され、東、西、南、北側中央に政庁門が構えられていました。また政庁の東側丘陵部に官衙施設が、西側丘陵部に工房等があったとされます。基本的に律令制官衙様式を倣った国府・国衙施設として築かれたものと推測されます。

 払田柵は史書(『続日本紀』等)に記載されていない古代官衙施設ですが、大和朝廷が古代蝦夷地域の統治拠点として築かれたものと推測されます。奈良期、大和朝廷による出羽国支配は天平5(733)年の雄勝郡の建郡に始まり、順次 北上して天平宝字3(759)年 平鹿郡が建郡、平安初期 山本郡(後の仙北郡)が建郡されます。払田柵は当時、山本郡に属することから、この頃 築かれたものと思われます。
歴史・沿革
払田柵 外郭南門祉と外郭北側
メモ
大和朝廷が築いた古代官衙施設
形態
古代官衙施設
別名
・・・・・・・・・
遺構
政庁域・建物祉・門祉・復元門・復元柵列・復元石積・井戸祉
場所
場所はココです
駐車場
払田柵歴史公園の駐車場
訪城日
平成16(2004)年11月4日 平成20(2008)年8月17日
払田柵は仙北平野中央部の細長い低丘陵上に築かれた古代官衙施設で、丘陵上に設けられた政庁域(内郭)政庁域を囲った外郭、さらに外郭を囲うように周囲の平野部に外柵列が設けられていました。(写真左上ー北側からの遠景 写真右上ー南西側からの遠景) 現在、外柵ラインは南側で部分的に復元され(写真左・左下)、外柵内部から竪穴住居が発掘調査で確認され、兵舎、官衙役人の住居と想定されています。でっ、外柵ラインの南側中央に外柵南門が構えられ、この門が払田柵の表門にあたるのでしょう。(写真右下ー復元された外柵南門)
でっ、外柵南門を越えると外郭南門まで真っ直ぐ道路が延びています。(写真左上) 外郭南門は丘陵際に設けられ、12本の掘立柱で建てられていたようです。(写真右上・右) でっ、門に隣接した外郭ラインは石積の土塁で固められ(写真左下)、丘陵を囲うように木柵列が敷設されていたようです。でっ、南門のほかに東、北、西側にも外郭門が設けられ、それぞれ周囲より3−5m高い微高地に構築されています。(写真右下ー外郭東門)
(写真左上) 外郭西門
長森の中央部に構築された政庁域(内郭)は東西60m×南北80mほど、周囲を板塀で囲った方形に区画され、東、西、南、北辺の中央に門が構えられていました。でっ、内部は中央に主殿(正殿)が構えられ、南側に東脇殿・西脇殿が、北側に東後殿・西後殿が配置され、律令制官衙様式を倣った古代官衙形態をしています。(写真右上ー南東側からの近景 写真左ー南西側からの近景)
(写真左下) 政庁南門 (写真右下) 東前殿
(写真左上) 西脇殿
(写真右上) 東脇殿
(写真右) 政庁正殿
(写真左下) 正殿西後方建物
(写真右下) 正殿東後方建物
 
長森の北麓には「ホイト清水」と呼ばれる井戸祉が残っています。この地は扇状地形の扇央部に位置することから、湧水には困らなかったようです。 政庁域東方の丘陵部でも官衙施設が確認され、掘立建物・板塀列が表現されています。
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