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幡江館は仙北平野の中央東部、丸子川南岸の扇状地形扇端部(湧水地)に築かれた平城で、菅江真澄の『月の出羽路』に「外館、本ト戸館に作る也、家 古八軒、今五軒」と記されています。現在、館祉は宅地化、道路整備等により遺構の大半が消滅し、規模・構造等は不明ですが、周囲を二重濠で囲った方形館と想定され、館の西ー南側の濠祉と思われる遺構?が微かに残存しています。基本的に在地領主の日常居館と思われます。
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築城時期・築城主体ともに不明。『新渡戸文書』によると康永元(1342)年、山本郡幡江郷荒井村が左衛門尉貞隆から和田石見左衛門蔵人繁晴へ打渡され、さらに貞治3(1364)年 和田?保阿から辰犬丸に、同5(1366)年 辰犬丸から新蔵人秋季に譲られており、幡江館は南北朝期 和田氏により築かれた可能性が推測されます。戦国期、「幡江郷」は「六郷衆」に与した在地領主の神尾町氏の所領となります。神尾町氏は鎌倉末ー南北朝期頃、仙北郡に入部した伊豆狩野氏の庶流と伝えられ、室町末期 二階堂氏と婚姻関係を結んで「六郷衆」(六郷城主 六郷氏、飯詰城主 久米氏、金沢城主 金沢氏等)の一翼を担い、「奥州仕置」(天正18年)では独立した国人として二千六百六十一石の所領を安堵されています。史料上では『戸沢家譜』に神尾町尾張守、神尾町豊前守、神尾町雅楽等の名が、『奥羽永慶軍記』の「岩崎城攻めの事」に神尾町内膳の名が見られます。文禄3(1594)年の『中郡領知上り高書上ゲ手控』によると畑屋は神尾町氏配下の畑江氏の所領として記されていることから、幡江館に畑江氏が拠していたと推測されます。慶長7(1602)年、六郷氏の常陸国府中への転封により廃城か?。 |
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「六郷衆」 神尾町氏の被官 畑江氏の居館か? |
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平城 |
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・・・・・・・・・ |
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濠祉? |
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場所はココです |
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路上駐車 |
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平成20(2008)年8月17日 |
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幡江館は現在の上畑屋地区西部に存在していたと思われますが、内部は宅地、道路建設等により改変され、遺構の大部分が消滅し、このため城域の範囲・規模は不明瞭になっています。(写真左上ー北西側からの遠景
写真右上ー内部) でっ、集落内を徘徊したところ、館の西ー南側の濠と思われる地形を発見!!!。(写真左ー西側の濠祉か? 写真左下ー南側の濠祉か?)
遺構かどうなのかはハッキリ明言できませんが ・・・・・、それらしい雰囲気はあります。 |
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(写真右上) 館祉の南東部に祀られる八幡神社 |
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