新 発 田 城
新潟県新発田市大手町
立地・構造
 新発田城は蒲原平野の北東部、加治川左岸に広がる新発田川の自然堤防上、東から西方向に延びた微高地に築かれた平城で、北ー西側に広がる沼沢地・湿地帯を自然の濠としていたと推測されます。城の規模は東西500m×南北1200mほど、城縄張りは本丸(中世の主郭)二の丸で囲い、南側に三の丸を敷設したシンプルな構造、各郭は外側に対して土塁が築いて区画していたと思われます。本丸は逆台形状の郭で、規模は東西400m×南北350mほど、周囲を土塁と濠で囲った方形郭、虎口は南側中央に表門が、北側中央に裏門が構えられていました。大手口は三の丸の南側中央に設けられ、導線は三の丸⇒二の丸⇒本丸表門に繋がっていたと想定され、導線は本丸表門の手前でクランクさせて
現地説明板の図
に直進できないように設定されていました。なお本丸古丸が中世新発田氏時代の旧新発田城と推測され、二の丸・三の丸は近世 拡張整備されたものと思われます。現在、本丸は自衛隊の駐屯所、二の丸・三の丸は一部 公園になっていますが大部分は市街地に吸収されています。

 築城時期は不明。築城主体・城主は鎌倉初期、越後国「加治荘」の地頭職として入部した越後佐々木(加地)氏の庶子家 新発田氏とされ、史料上の初見は応永年間(1394−1428年)末期、中条土佐守房資が書き記した史料に「加地 新発田云々」の記載があることから、南北朝期末頃には嫡流の加地氏から独立した国人として認知されていたと思われます。戦国期、新発田氏は惣領 加地氏を凌ぐ在地勢力に成長し、享禄3(1530)年 上条城主 上条播磨守定憲が守護代 長尾信濃守為景に叛旗を翻した際、新発田伯耆守綱貞は同族の加地安芸守春綱、竹俣清綱、五十公野景家とともに為景方に加担しましたが、後に上条方に寝返っています。天文17(1548)年、長尾景虎(のちの上杉謙信)が家督を継承して上、中越を平定すると、下越の国人衆も景虎に従属し綱貞も所領を安堵されました。そして綱貞の嫡子 尾張守長敦は謙信政権下で内政・外交を担当する家臣として重用され、軍事面でも天正3(1575)年の『上杉軍役帳』によると「軍役 百九十四人」を負担しています。同6(1578)年、謙信が死去し「御館の乱」が勃発すると、長敦は弟の五十公野治長(のちの新発田重家)とともに喜平次景勝方に加担し、景勝と武田勝頼の和議を結ぶなど景勝方の勝利に貢献しました。そして乱中の同7(1579)年、長敦が病死すると新発田家の家督は五十公野治長(重家)が継承しましたが、乱後の論功行賞で新発田一族に恩賞が与えられず、このため重家は景勝政権に不満を抱くようになります。同9(1581)年、重家は会津蘆名氏と結び、同族の加地城主 加治秀綱、五十公野城主 五十公野宗信とともに景勝政権に叛旗を翻し、蒲原郡に侵攻して新潟津を制圧しました。(「新発田重家の乱」) 景勝はすぐに新発田勢の鎮圧に動きましたが、この間 上杉は越中で織田勢と対峙し、さらに翌10(1582)年 同盟する武田勝頼が織田信長に滅ぼされて信濃・上野口に不安を抱えていたため「新発田の乱」まで手がまわりませんでした。しかし同年6月、信長が本能寺で横死して織田勢力が越後侵攻から撤退すると、景勝は織田勢に荒らされた北信を回復して「新発田の乱」鎮圧を本格化させます。同11(1583)年、羽柴秀吉と和議を結んだ景勝は自ら鎮圧に出馬しましたが、越中で佐々成政が反上杉の軍事行動を起し景勝を牽制したため勝利を得ずに春日山城への帰陣を余儀なくされました。同13(1585)年、秀吉の「越中の役」を後方支援して佐々成政を降した景勝はふたたび「新発田の乱」鎮圧に動きます。同14(1586)年、上洛して秀吉に謁見し大義名分を得た景勝は帰国後の同年8月、下越の本庄、色部氏へ新発田攻めを命じて自ら出陣します。同15(1587)年4月、水原城を攻略した上杉勢は さらに北侵し、8月 蘆名氏との支援ルートを断つため赤谷城を、9月 加地城、10月 五十公野城を陥落させ、最後は重家の籠る新発田城に猛攻を加えて重家を自害に追い込みました。そして「新発田の乱」鎮圧後、新発田城に宮島三河守が城代として入城しましたが、慶長3(1598)年 景勝が会津に転封になったため 新発田に加賀大聖寺から溝口伯耆守秀勝が入封しました。秀勝は新発田氏時代の旧城を大改修して「新新発田城」を新たに築くことを計画し、慶長7(1602)年 築城に取り掛かり、三代藩主 出雲守宣直の代の承応3(1654)年 近世新発田城は完成しました。その後、寛文8(1668)年と享保4(1719)年、新発田城は火災にみまわれましたが、溝口藩の藩庁として「明治維新」まで存続しました。
歴史・沿革
新発田城 二の丸の城址碑
メモ
中世 ー 越後佐々木氏の庶流 新発田氏の館城
近世 ー 新発田溝口藩の藩庁
形態
平城
別名
 菖蒲城・浮舟城
遺構
郭(平場)・土塁・門祉・復元櫓・復元表門・石垣・濠・土橋
場所
場所はココです
駐車場
新発田城祉公園駐車場
訪城日
平成18(2006)年11月26日 平成21(2009)年12月10日
新発田城は現在の新発田市街地に築かれた平城で、大部分は市街地に吸収されていますが、本丸二の丸の一部が公園となっています。(写真左上ー二の丸の西側) でっ、本丸の大部分も陸上自衛隊の駐屯地になり、南側の一部が公園整備され、西ー南側の濠がL字状に残存しています。(写真右上ー西側の濠 写真左・左下ー南側の濠) 規模は西側の濠が幅30m、南側の濠が幅15mほど、西側の塁線に「折れ」が見られます。また北西端に御三階櫓が、南東隅に辰巳櫓が復元され、南西隅に二の丸の隅櫓が移築されています。(写真右下ー御三階櫓)
(写真左上) 旧二の丸隅櫓
(写真右上) 辰巳櫓
土橋門祉(写真右) 二の丸から本丸表門を結ぶ導線(帯郭)に構築された門で、本丸から濠を挟んだ南西側に位置します。内部は明確な枡形にはなっていないようですが、導線は微妙にクランクさせ、本丸側の城塁から横矢がかけられています。(写真左下)
(写真右下) 本丸の復元表門
現在、本丸内部は陸上自衛隊の駐屯所になっているため、解放されているのは南側のみ。周囲は高さ3−4m前後の土塁で囲まれ、南側中央に二の丸と繋がる表門が構えられています。(写真左上・右上)  でっ、土塁の外側は石垣で構築されていますが、裏側は「土の城」になっています。
秋田の中世を歩く