高 山 右 近 の 碑
石川県羽咋郡志賀町末吉ハ
 高山右近重友(友祥、長房とも)は戦国末ー近世初期にかけての武将で 著名なキリシタン大名です。重友は天文21(1552)年(天文22年とも)、摂津国三島郡の国衆 高山飛騨守友照の嫡子として生まれ、父 友照は松永弾正久秀に仕えて大和国榛原郡の沢城に拠していたとされます。そして重友は永禄6(1563)年、キリスト教の洗礼を受けた父 友照の影響を受けて洗礼を受けたと伝えられます。(洗礼名はジュスト) 永禄11(1568)年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛をはたすと、義昭は側近の和田惟政を摂津国半国守護職に任じて高槻城に配します。この際、高山父子は和田惟政の与力として芥川山城に配されましたが、元亀4(1573)年 惟政のあとを継いだ惟長の高山父子暗殺計画が露見したため惟長は追放されました。そして高槻城を得た高山父子は摂津国池田の国衆 荒木信濃守村重の支配下に置かれました。天正6(1578)年、荒木村重が織田信長に叛旗を翻すと 高山父子もまた高槻城にこもって織田勢に抗します。そして城内では「徹底抗戦すべし」との友照派と「信長に降伏すべし」とする重友派の意見が対立しましたが、重友は降伏のみちを選び、信長のもとに出頭しました。翌7(1579)年、村重の有岡城出奔により「村重の乱」が終結すると、重友の所領は安堵され 新たに摂津国芥川郡が加増されました。天正10(1582)年、「本能寺の変」で信長が横死すると 重友は明智光秀の誘いを拒否して羽柴秀吉の麾下に入り、「山崎の戦」では羽柴方の先鋒をつとめています。また翌11(1583)年の「賤ヶ岳の戦」でも羽柴方に加担して岩崎山を守備し、その後も天正12(1584)年の「小牧長久手の戦」、同13(1585)年の「四国の役」などに参陣しています。同13(1585)年、重友は播磨国明石郡を宛がわれて船上城を拠点としましたが、同15(1587)年 秀吉により「伴天連追放令」(禁教令)が施行されます。このため重友は所領を捨てて信仰のみちを選び、同16(1588)年には前田利家に招かれて金沢で前田家の庇護を受けています。慶長19(1614)年、徳川幕府より「キリシタン国外追放令」が施行されると 重友は前田家が引き留めるのを拒否して加賀を退去し、内藤飛騨守忠俊(ジョアン)(丹波国八木城主)等とともに長崎からマニラに送致されました。しかし重友は長旅の疲れと慣れない気候により病をえて、翌20(1615)年 マニラで死去しました。重友の葬儀はスペインのマニラ総督の指示によりマニラ全市をあげて聖アンナ教会で執り行われ、遺骨はアンナ聖堂の近くに埋葬されました。そして1634年、重友の遺骨はサン・ホセのコレジオ聖堂に移されたと伝えられます。重友の死後、右近の家族は日本への帰国が許され、嫡男の十次郎長房が重友の知行地であった当地に永住して、重友の遺骨の一部と遺品をこの地に埋葬したと伝えられます。(場所はココです)
高山右近の碑
高山右近の碑 
高山右近の碑(埋葬墓?) 
高山右近の碑(墓碑・慰霊碑?)
高山右近の像