新 庄 陣 屋
奈良県葛城市(旧新庄町)南藤井・屋敷山公園
立地・構造
 新庄陣屋は奈良盆地の南西部、葛城山系東麓にある古墳時代中期の前方後円墳(「屋敷山古墳」)を利用して築かれた丘城(近世陣屋)です。規模は東西150m×南北200mほど、周囲を囲った古墳の周濠を濠としています。現地説明板によると墳丘部分に殿舎や大奥、御物見、御蔵が、西側の平場に御蔵が設けられ、また陣屋を中心に東ー北ー西側に家中屋敷が構えられ外郭としていたようです。陣屋町は陣屋の東方に整備され、家中屋敷地の東方に商工人の町屋が設けられていたようです。(現在の新庄市街地の町並みは往時のものなのでしょう) 現在、陣屋祉は「屋敷山公園」として整備され、部分的に城郭遺構が残存しています。

 築城時期は不明。通説では中世、大和国西山内の有力国衆 布施氏が居館として築いたとも。布施氏は宮廷官人 三善氏を祖とし、鎌倉期 大和国西山内 興福寺の荘園「平田荘」の荘官をつとめて武士化し、南北朝期 「筒井党」に属した国衆でした。また室町期、布施氏は幕府の奉行人をつとめ、下野守貞基は幕府の公人奉行に任じられています。そして室町初期、布施氏
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現地説明板の図
は筒井氏と行動をともにしていましたが、永享元(1429)年、興福寺の堂衆 豊田氏と井戸氏の対立が大和国内を二分する内乱に発展すると、布施氏はかつて対立していた「越智党」に加担しています。(「大和永享の乱」) そして永享7(1435)年、「永享の乱」は終結しましたが、その後 布施氏は「越智党」の万歳氏、高田氏と対立し「布施郷」を追われましたが、その後 布施左京亮は筒井成身院順盛の支援を受けて「越智党」に勝利し「布施郷」を奪還したとされます。永禄2(1559)年、三好長慶の命により大和に侵攻した松永弾正忠久秀は同5(1562)年 筒井城を攻撃して筒井陽舜房順慶を追放しましたが、この際 順慶は布施左京進行盛を頼ったとされます。そして「布施郷」は再三にわたって松永勢の攻撃に晒されましたが そのたび凌ぎ、天正5(1577)年 久秀が織田信長に謀叛を起こして信貴山城で自爆すると、大和一国は筒井順慶に宛がわれました。しかし天正8(1580)年、新庄城は布施城とともに織田信長の命による大和国内破城令により破却されました。天正13(1585)年、布施氏は筒井定次の伊賀転封に同道し、その後 慶長5(1600)年の「関ヶ原」後に桑山修理太夫一晴が紀伊国和歌山から大和国布施に入封して布施氏の新庄城跡に陣屋を構えて布施藩を立藩しました。その後、桑山新庄藩は左衛門佐一直ー修理亮一玄(かずはる)ー美作守一尹(かずただ)と続きましたが、天和2(1682)年 寛永寺での四代将軍 家綱の法会の席で院使饗応役を命ぜられた一尹が勅使に対して不敬があったとして桑山新庄藩は改易となりました。これにさきだつ延宝8(1680)年、丹後国宮津藩主 永井信濃守尚長と志摩国鳥羽藩主 内藤和泉守忠勝との間で刃傷事件が発生し、両藩ともに改易されましたが、同年 永井尚長の弟 能登守直圓(なおみつ)に大和国葛上郡の所領が宛がわれ永井家は家名を再興しました。そして桑山新庄藩の改易後、永井新庄藩が陣屋を葛上郡松本に構えたため、新庄陣屋はほどなく破却されたものと思われます。
歴史・沿革
新庄陣屋 「新庄城址」碑
メモ
中世 ー 大和西山内の国衆 布施氏の居館
近世 ー 大和桑山新庄藩の藩庁
形態
丘城 (近世陣屋)
別名
新庄城
遺構
郭(平場)・堀(濠)
場所
場所はココです
駐車場
屋敷山公園の駐車場借用
訪城日
平成30(2018)年4月19日
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新庄陣屋は新庄市街地の西方、国の指定史跡 「屋敷山古墳」を利用して築かれた丘城です。(写真左上ー南側からの近景) でっ、近世新庄陣屋は中世の城館祉を利用して築かれたもので、古墳の周濠を濠としていたのでしょう。(写真右上ー西側の濠 写真左ー南側の周濠祉) 現地説明板によると墳丘部分と西側の平場に殿舎や藩の行政施設、御蔵等が建てられていたようです。(写真左下ー西側平場の御蔵祉 写真右下ー「新庄城祉」碑) でっ、なぜか墳丘部分は立入禁止になっていたため入っていません。
新庄陣屋の東ー北ー西側には家中屋敷が構えられ外郭になっていたようです。(写真左上ー北側の家中屋敷祉 写真右上ー東側の家中屋敷祉・現在は中学校が建っていますが、往時は碁盤状の街並みになっていたのでしょう)
新庄陣屋の北・南側には陣屋町自体を防御するように外郭濠が設けられていました。(写真右ー北側の外濠祉)