小 楠 公 の 墓 所
大阪府四條畷市雁屋南町
 小楠公(楠木正行(まさつら)は南北朝初期、後村上天皇に仕えた南朝方の武将です。父は後醍醐天皇の倒幕運動(「元弘の乱」)に参加した「河内の悪党」 楠木正成とされ、建武3(1336)年 正成が「湊川の戦」で自害すると 正行は楠木氏の棟梁として河内国内で北朝勢力(足利幕府)と対峙しました。正行の史料上の初見は延元五(暦応三 1340)年四月八日、建水分神社に奉納した扁額に記載された「左衛門少尉 橘正行」で、この頃 正行は河内国司、河内国守護職を兼務していたものと思われます。興国五(康永三 1344)年、東国から吉野行宮に帰還した北畠親房は南朝内部の和平派 左大臣 近衛経忠を失脚させ、吉野行宮の和平派の影響力を排除しました。このため本来、和平派に与していたと思われる正行は強制的に北朝方との(いくさ)に巻き込まれていきます。正平二(貞和三 1347)年八月、挙兵した正行は幕府方の河内・和泉両国守護 細川陸奥守顕氏を
小楠公の像(飯盛山城)
撃破します。(「藤井寺の戦」「教興寺の戦」) さらに正行は同年十一月、山名時氏、大友氏泰の支援を受けた細川勢をふたたび撃破し、河内の平定に成功しました。(「住吉 天王寺の戦」) このため幕府は幕府執事職 高師直を総大将にして幕府軍を河内に派兵し、師直は正平三(貞和四 1348)年一月 河内に入国して飯盛山の西麓 野崎に陣を敷きました。そして「四条畷の戦」は当初、南朝軍優勢で推移しましたが、南朝勢の平坦が延びたところを幕府軍に衝かれ、進退窮まった正行は弟の次郎正時や従兄弟の和田新発意賢秀とともに自害したと伝えられます。明治9(1876)年、従三位が追贈され、明治30(1897)年に従二位が追贈されました。明治10(1877)年、明治天皇の大和行幸の際には正行を追悼して「汝正行、父ノ志ヲ継キ、力ヲ王事ニ尽シ、遂ニ国難ニ斃ル。朕甚世忠ヲ追感ス。今大和ニ幸スルニ因リ、使ヲ遣シ汝ノ墓ヲ弔シ、且金幣ヲ賜フ」との勅語が発っせられました。(場所はココです)
小楠公の墓所 
小楠公の墓所 
小楠公の墓石 
明治11(1878)年建立。「贈従三位 楠正行朝臣之墓」は大久保利通の揮毫によるもの。
顕彰碑