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世田米城は気仙川の左岸、東から西方向に張り出した舌状台地先端(標高121m 比高40m)に築かれた山城で、東西2郭からなる複郭構造の館城です。城の北ー西ー南側は段丘崖で、東側は堀で丘陵基部を分断して城域を区画し、規模は主郭が東西120m×南北30−40m、二の郭が東西?m×南北70−80mほど。(東西規模は東側の堀が明確でないため不明) 両郭は幅25−30mの堀で分断されています。世田米城は気仙川沿いに遠野から気仙に繋がる高田街道を見下ろす高所に位置することから街道を扼する機能が想定され、また郭の規模は比較的 大きく、基本的に在地勢力の恒常的な日常居館を含む館城と思われます。
築城時期・築城主体ともに不明。一説に葛西氏が遠野・気仙領の「境目」の防衛拠点として遠野阿曽沼氏の庶子家を同地に配して築いたとも。阿曽沼氏は『人首菊池文書』に永正8(1511)年、葛西太守宗清と山内首藤定通が桃生郡で戦った際、葛西勢の中に世田米氏の名があることから、この頃までに遠野阿曽沼氏の庶子家が葛西氏の支配下に組み込まれ、世田米城を拠点にしていたと思われます。慶長5(1600)年、遠野鍋倉城主 阿曽沼広長は南部信直とともに和賀郡岩崎に出陣しましたが、この隙をついて鱒沢館主 鱒沢広勝、上野広吉、平清水平右衛門等が叛乱を起こして「遠野郷」を制圧しました。このため広長は「遠野郷」に戻ることができず、舅の阿曽沼修理広久を頼って世田米城に身を寄せます。翌6(1601)年、広長と広久は伊達政宗の支援を受けて「遠野郷」に侵攻しましたが、南部氏の支援を受けた鱒沢氏の抵抗は手強く、広長は「遠野郷」を奪還することなく、その後 伊達氏の被官になったとされます。 |
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「気仙二十七城」 世田米阿曽沼氏の館城 |
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山城 |
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世田米下館 |
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郭(平場)・堀・土塁?・土壇? |
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場所はココです |
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路上駐車 |
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平成21(2009)年5月29日 |
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世田米城は気仙川左岸の丘陵上に築かれた山城で、遠野から気仙に繋がる高田街道が気仙川の峡谷地帯に入る直前の谷口に築かれています。(写真左上) でっ、城へは北・南側の車道から道があり、管理人は南側から二の郭に入りました。(写真右上) 二の郭は全体が耕作地になっているため規模・遺構ともに不明瞭、なおかつ東側の丘陵部と分断したと思われる堀もよくわかりません。(写真左) でっ、主郭・二の郭間を遮断した堀は幅25−30mほど。(写真左下・右下) |
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主郭(写真左上) 規模は東西30−40m×南北120mほど、北側に八幡社が祀られ(写真右上)、背後に土塁らしき土壇も見られますが、土塁背後は高低差なく平場が続いていることから八幡社創建時
風除けとして構築されたものなのでしょう。(写真右下) また南側中央にも土壇のようなものがありますが、なにかはわかりません。なお主郭の北ー西ー南側下に腰郭が配置されているようですが未確認。 |
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